武田泰淳「貴族の階段」

 節子は恥ずかしくて申しわけなくて、死にたいほどだった。全身がけいれんし、呼吸がみだれてくる。見つめる標的はかすんできて・・・起ち上ろうとする節子に、兄は思わず両腕をさし出した。節子はのろのろと起ち上ったが、ふたたび精も根も尽きはてたように倒れこんだ。抱かれるようにして、兄の腕の中に。先生が駆けよるまで、三秒か五秒、そのあいだ私はこう思っていた。ああ、とうとう。そして、この二人が抱きあうことは、もう永久にないのではなかろうか、と。

貴族の階段 (岩波現代文庫)

貴族の階段 (岩波現代文庫)

 主人公の永見子は17歳の貴族令嬢、次期首相候補の娘。家では日参する政治家と父との密談をメモする係りを務めています。時代は荒れていて、クーデターのうわさで持ちきりです。秘密の会話の結末は、後に二・二六事件と呼ばれるものになります。

 主要人物は、すべてを知っているような顔をしているものの、実際は何の根拠も持たない永見子。気が優しくて繊細で親孝行でありながら、根を張った生活への尊敬から軍隊に入り、クーデターの実行グループ(つまり父親の命を狙う側)に入ってしまった、兄・義人。クーデターの先導役の陸軍大臣の娘で、主人公のことを姉と慕い、同性愛の傾向を隠せない美少女・節子。

 ある日、兄が節子へ送ったラブレターをきっかけに、主人公はさまざまな形の恋愛に巻き込まれ、苦しみの中から生み出されるものを待ちます。女性の気持ちを知る作家らしく、嫉妬、羞恥心、欲望、好奇心といった、多感な彼女たちの気持ちの揺らぎが生き生きと描かれています。ここに政治小説の難解さはまったくなく、あるのは貴族的な「現実」への客観性と、彼女たちなりの心労、そして意外な決断力。とても読みやすい文体で描かれており、太宰治「斜陽」や三島由紀夫の小説を思い起こします。

 各グループはそれぞれが自分が正しいと信じて行動し、自らの命を投げ打つ覚悟で必死です。しかし、主人公はメモ係の傍観者。そんな彼女から見てみると、すべての行為が馬鹿馬鹿しい。「命令だけを頼みの綱として、高さの知れぬ岸壁を登ろうとする、必死さと淋しさ、子供じみたとまどい」、と・・・。理念を掲げた大事件も太古から繰り返されてきたものに過ぎず、どうせまた繰り返されますよ、それより、さあ、ご飯を食べましょうという「大山巡査のおかみさん」が正常だという達観は、主人公の少女というより、作者のもの。実力行使が日常だった時代に、傍観者を配置して熱を下げ、血の戦いの繰り返しをキッパリと否定します。



 作者は二・二六事件を描く目的では書いていない。武田泰淳が意図したのは、腐れかけた果物のような貴族社会と、思考の硬直してゆく社会にあっての女たちだったのではないかと思える。大山巡査の妻がもっとも生彩を帯びているところに、作者の書こうとした精髄があるのではないだろうか。(澤地久枝、解説より。ネタバレ防止のため一部改め)

 今日は、陸軍大臣が、おとうさまのお部屋を出てから階段をころげおちた。あの階段はゆるやかで幅もひろいのに、よく人の落ちる階段である。

「私はいつも、何かしでかそうとしている。また、事実、つまらないこといろいろやらかす。でも、根本的なところでは、何もしていないのよ。あなたの方は、自分では何もやるまいとしている。でも、結局は、あなたの方が、私をおどろかすのよ」

「ほんとに、死にたがっているのかしら」
と、私が言う。
「それは人間だもの、死にたくはないでしょう。でも、死にたがらないで生きのびようとするのは、男として恥ずかしいと信じてはいるでしょう」
「そういう男もいるし、そうでない男もいるわ」