愛と文学

武田泰淳「貴族の階段」

節子は恥ずかしくて申しわけなくて、死にたいほどだった。全身がけいれんし、呼吸がみだれてくる。見つめる標的はかすんできて・・・起ち上ろうとする節子に、兄は思わず両腕をさし出した。節子はのろのろと起ち上ったが、ふたたび精も根も尽きはてたように…

石川淳「飛梅」

愛情のかぎりに光子を育てた大八だったが、帰国してみると光子は不良になっていた。その間育てていた十吉の返事は歯切れが悪い。光子に逢うこと叶わず、ついと大八は立ちあがり、「おれは必ず光子に逢ってみせるぞ」と息まいてようやく外に出て行った。する…

高見順「起承転々」

大人の雰囲気を醸し出す令嬢・雅子に近づいた印南は、兄を名乗る男・佐伯とも知り合いになる。早合点した印南の母親は、佐伯夫人の元へ行き、そちらの妹さんと今後も宜しくお付き合いのほどをと菓子折り持参で出かけるが、どういうわけか話が全然かみ合わな…

武田泰淳「もの喰う女」

私は最近では、二人の女性とつきあっていました。男友達も多い弓子との付き合いは、愛されているようであり、馬鹿にされているようでもあり、その反動が私を房子に近づけました。房子は喫茶店で働く、貧乏な女でした。彼女のそばに居ると、弓子のおかげでい…

佐多稲子「水」

春の日の正午過ぎ、上野駅のホームの片隅で、幾代はしゃがんで泣いていた。彼女がしゃがんでいる前には列車の鋼鉄の壁面があり、ときどき彼女のすぐ前を駈け抜けて行く人がある。幾代はつかまり場を欲した姿勢そのままに、ズックの鞄を両手にかかえこんでい…

坂口安吾「花妖」

「孤独が心地いい」とうそぶき、終戦後も防空壕に起居する父、その父を軽蔑する母。開放的な遊び人の次女、前時代的で暴力的な男であるその夫。そして狂気的情熱を持った長女・雪子。終戦後の変化について行く者と行けない者が混ざり合った物憂げな一家が過…

太宰治「満願」

これは、いまから、四年まえの話である。私が伊豆で一夏を暮し、ロマネスクという小説を書いていたころの話である。泥酔して怪我をした私を治療しに現れた、泥酔したお医者さん。おかしさに笑いあった二人は以来仲良しになったのである。お医者さんのお宅に…

横光利一「春は馬車に乗って」

「俺はこの庭をぐるぐる廻っているだけだ。お前の寝ている寝台から綱をつけられていて、その綱の円周の中を廻るだけだ」「あなたは早く他の女の方と遊びたいのよ。あたしは死んだ方がいいの」。これは「檻の中の理論」である。檻に繋がれた彼の理論を、彼女…

石川淳「変化雑載」

教えられて出向いた寺のうす暗い窓口から、すっと差し出された闇タバコ。いや、タバコよりもその手、その爪、真っ赤なマニキュアが塗られたその艶の出たのが、窓口にながれて眼にしみた。飛び出した細い手が札をつかんで引っこんで、硝子もしまって、後には…

川端康成「片腕」

片腕を一晩お貸ししてもいいわ――。女の外された片腕を持った私は、もやの濃い夜の中を帰途についた。やさしくしたおかげで、腕は話をしてくれる。私は娘の腕をやわらかくなで、手を握った。円みのある肩、腕のつけ根。まげた肘の内側にできた光りのかげを、…

石川淳「ゆう女始末」

ゆう二十六歳は日本橋のど真ん中に住み込んでいるくせに、寄席にも芝居にも興味がなく、見るのも聞くのも政治小説に政治欄。袖ひく男も寄りつきにくく、ゆうは鏡と相談した。ところが明治二十四年のくれ、ゆうの目には夢のうるおいが見えた。――ニコラス様、…

吉行淳之介「不意の出来事」

彼にバレちゃったの――。三十才のヤクザであり、雪子の足裏に煙草の火を押付ける男に、私のことが気づかれたという。私が与える快感とともに刻まれる眉間の皺が証拠となって、彼にバレちゃったというのである。そして、私に会いに「彼」が来るという。私は待っ…

坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」

そもそも私は男に体を許すことなどなんとも思っておらず、気だるいだけで、好きであればいいという感覚だ。それを人は不潔だというが、難しいことが面倒なだけなのだ。そのうちに戦争がやってきて母親が死んだが、私は気楽な生き物であった。国のことは他の…

林芙美子「夜の蝙蝠傘」

戦地で右足を切断した英助は、もう死んでしまっても仕方がないと観念していた。いまから思えば、生きかえることを深く信じていたが、心の片隅の感傷は、生命と云う炎のまわりを、死んでも仕方がないぞと云いつづけていた。しかし英助は死ななかった。死んで…

川崎長太郎「夜の家にて」

五十のとしまで独身できてしまった川上竹六は、棲家である物置小屋を出て、町端れにある魔窟「抹香町」を目ざした。そこにはひやかしの路すがら、二三度食指が動いた売女がいる。だが、その女「みえ」としては、としをとった不景気な男を、馴染客としたところ…

福永武彦「廃市」

十年も昔のことである。その時僕は卒業論文を書くために、一夏をその町のその旧家で過した。ひっそりとして廃墟のような寂しさのある町。古びた、しかし、すばらしく美しい町。だが、僕は知らなかった。この町の穏やかで静かな生活に隠された意味が何である…

北杜夫「パンドラの匣」

みんな、よく堪えているものだと感心します。あたしは重心がゆがんでいるんでしょう、今にもくずれそうな平衡のもとで、いつもびくびくして生きています。けれどもみんなは軟体動物のようにするすると生きているらしい。あたしが鈍感なのかしら?いえ、たん…

吉行淳之介「驟雨」

その女のことを、彼は気に入っていた。「気に入る」というのは、愛とは別だ。愛によるわずらわしさから身を避けるために、彼は遊戯からはみ出さないようにしていた。そのために彼は娼婦の町を好んで歩いた。だから彼、山村英夫は自分の心臓に裏切られたよう…

吉行淳之介「娼婦の部屋」

秋子は娼婦だった。その体と会話するとき、彼女のさまざまな言葉が私の体へと伝わってきた。この平衡は長くは続かず、いつしか私は彼女の不在をさびしがるようになった。私の下で秋子が既に疲れていることがあり、そのときの気持は、そのまま嫉妬につながっ…

坂口安吾「桜の森の満開の下」

桜の下には風もないのにゴウゴウと鳴っている気がしました。そこを歩くと魂が散り、いのちが衰えて行くようです。旅人がみんな狂ってしまう桜の森がある山には、むごたらしい山賊が住んでいました。美しい女房をさらってきましたが、男はなぜか不安でした。…

島尾敏雄「死の棘」

寄りそってくる妻はもういない。信頼のまなざしはもう認められない。電車を降りて家に帰ると妻はいなかった。女を刺し殺すのだと言っていた顔が、鶏の首を黙ってしめていた孤独な格好が目に浮かぶ。私は二度と行くまいと誓ったはずの、女の家にふたたび向う…

松本清張「菊枕」

善良だが向上心や野心のない夫に失望した妻・ぬいは、俳誌に句を投じるようになった。以来家事が疎かになったが、夫はとがめることが出来ず、台所におり子育てもした。ぬいは生来勝気な性格であったが、それは自分より才能豊かな(と彼女が感じた)人物に対…

壇一雄「終りの火」

妻・リツ子は昏々と眠っている。リツ子のお腹は生気も弾力も失い、死火山のようにげっそりと陥ちている。舌と唇の亀裂はひどく、微塵のひびに犯されている。知覚も何もなくなっているにちがいない。足は足とは思えず、巨大なキノコの類に思われた。父は息子…

林芙美子「下町」

夫がシベリアへ行ってから、りよは幸福を味わったことは一度もなかった。歳月は彼女の生活の外側で、何の感興もなく流れている。りよは、鉢巻の男の様子が、人柄のいい人物のように思えたので、おそるおそるそばへ行って、「静岡のお茶はいりませんでしょう…

石川淳「雪のイブ」

売春婦と泥棒の喧嘩の仲裁に立ち上がった靴磨きの女はなまめかしく、男はついと誘い出す。入った先は西銀座の酒場、酔った女は自然に立膝の姿勢をとり、ズボンの破れ目から白くはだかの肉を光らせる。「行こうよ、ね」。ふりしきる雪は「善悪を知るの樹」も…

安岡章太郎「ガラスの靴」

待つことが僕の仕事だった――。夜番として雇われた僕は、戦う勇気も体力もないが、ただ待つことだけは出来るのだ。ある日、届け物をした家の先のメイドとしたしくなった。彼女は二十歳だったが、とても子供っぽいところのある人で、一日中かくれんぼをしてい…

武田泰淳「汝の母を!」

日本軍に捕まった現地の息子と母親を前に、強姦好きな兵士たちは気味悪い笑みを浮かべていた。無知な兵士は「バカヤロウ!」程度の意味で「ツオ・リ・マア!」と叫んだが、それは「お前のおふくろはメス犬だ!」といった意味だった。満足する結果の後、親子…

尾崎翠「歩行」

夕方、私は幸田当八氏のおもかげを忘れるために歩いていた。医者である幸田氏の研究は、戯曲のなかの恋のせりふを朗読させ、そのときの人間心理の奥ふかいところを究めることにあったのであろう。そのために私がモデルになったのである。幸田氏が滞在してい…

矢田津世子「茶粥の記」

亡くなった良人は、雑誌に寄稿するほどの食通として有名で、味覚談義にはきりがなかった。聞き手たちは良人からまだ知らぬ味わいをいろいろ引き出しては、こっそりと空想の中で舌を楽しませる。しかし、良人は実際に食べたことはないのである。聞いた話や読…

島尾敏雄「島の果て」

むかし、世界中が戦争をしていた頃のお話なのですが――。隣の部落のショハーテに、軍隊が駐屯してきました。みんなおびえていましたが、聞くところによると中尉さんは軍人らしくないそうです。中尉さんは、子供たちとも仲良くしていました。ところで敵の影が…