尾崎翠「歩行」

 夕方、私は幸田当八氏のおもかげを忘れるために歩いていた。医者である幸田氏の研究は、戯曲のなかの恋のせりふを朗読させ、そのときの人間心理の奥ふかいところを究めることにあったのであろう。そのために私がモデルになったのである。幸田氏が滞在している間じゅうずっと、私たちはただ恋のせりふを交換してすごしたのだ。

尾崎翠 (ちくま日本文学全集)

尾崎翠 (ちくま日本文学全集)

 忘れられない人を忘れるために歩行するけれども、やっぱり忘れられないその人のこと。意図的に崩された工夫ある文章のため、独特の世界が築かれています。その効果は場面のイメージを新鮮にさせるようで、屋根裏の朗読会や、おはぎを持っての夜道の散歩など、いくつかの情景は淡くやわらかなものとして残ります。

おもかげをわすれかねつつ
こころかなしきときは
ひとりあゆみて
おもいを野に捨てよ

おもかげをわすれかねつつ
こころくるしきときは
風とともにあゆみて
おもかげを風にあたえよ

尾崎翠集成〈上〉 (ちくま文庫)

尾崎翠集成〈上〉 (ちくま文庫)