2004-09-01から1ヶ月間の記事一覧

尾崎一雄「退職の願い」

私は人生において素人である。二十代で「めんどくせエ」を口癖にしていた頃から、それは変わっていないのではないか。私が「責任感」を持てたのは、ようやく妻をめとり、長女を得てからのことである。だがこの一年ほどの間で、私は記憶力の減退を感じだした。…

石川淳「修羅」

時は応仁の乱世、小さな戦のひとまず片付いた河原にて。足軽の死骸の間より、ゆらゆらと生身の女がにおい出た。あたりに目をくばったのは、陣から抜け出した山名の姫。都にもおそれられた古市の里に下り、主とちぎりをむすんだ女は数万のかしらとなって都へ…

石川淳「八幡縁起」

石別を抱えた山は、高く天にそびえ、茂みは大山となった。土地で山は神であり、その主である石別は山そのものであった。ある日、はるかかなたに丘がうまれ、それは三七二十一日目に山となった。ふもとの土地で新王の隣にそなえた荒玉は、血をこのむ新しい霊…

太宰治「たずねびと」

故郷へ向かう列車内はひどい暑さでした。病弱な二歳の男の子は泣き通しでしたし、五歳の女の子も結膜炎を患っています。汚いシャツの父親と、髪は乱れて顔に煤がついた母親と・・・。その列車の中でお逢いしたひとに、再びお逢いしたいのです。そして、お伝…

坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」

そもそも私は男に体を許すことなどなんとも思っておらず、気だるいだけで、好きであればいいという感覚だ。それを人は不潔だというが、難しいことが面倒なだけなのだ。そのうちに戦争がやってきて母親が死んだが、私は気楽な生き物であった。国のことは他の…

尾崎一雄「花ぐもり」

蜘蛛にもいろいろあって、活発に駆け廻って餌をとる奴もあれば、何喰わぬ顔で近づいていってさッと飛びつく奴もある。私は、網の真ん中にいて、虫をいつまでも待ち続けている蜘蛛だ。自分からそこへはまり込んだ私と比べることは、蜘蛛に対して失敬かもしれ…

林芙美子「夜の蝙蝠傘」

戦地で右足を切断した英助は、もう死んでしまっても仕方がないと観念していた。いまから思えば、生きかえることを深く信じていたが、心の片隅の感傷は、生命と云う炎のまわりを、死んでも仕方がないぞと云いつづけていた。しかし英助は死ななかった。死んで…

川崎長太郎「夜の家にて」

五十のとしまで独身できてしまった川上竹六は、棲家である物置小屋を出て、町端れにある魔窟「抹香町」を目ざした。そこにはひやかしの路すがら、二三度食指が動いた売女がいる。だが、その女「みえ」としては、としをとった不景気な男を、馴染客としたところ…

尾崎一雄「こおろぎ」

「こおろぎは泣き虫だね。でも、圭ちゃんは泣かないね」「泣かない」。そうと決めたら動かない四つの子供の様子に、私は安堵と同時にいじらしさを感じた。二年前に死にかけて以来、私は自分が初老の男にすぎないことを知った。ひるがえって、こいつらのこの小さ…

中上健次「重力の都」

女郎にもこんなに好きなのはめったにいないと声を掛けると女は笑いながらその事が好きでしょうがないと言い、それから思いついたように死んだ御人はひどいことをすると言い、何度も何度もして欲しいと言った――。「死んだ御人」の影響下で行われる男女の語らい…

大岡昇平「焚火」

空襲のとき、五歳だった私は母と一緒に逃げました。どんと大きな地響きがして、気がつくと、母は腰から下がコンクリートや木材のかけらの下になっていました。そのときの母の真剣な眼が今も忘れられません。「みっちゃん、歩けるわね。一人で行けるわね」。…

野坂昭如「火垂るの墓」

母は息をひきとり周りの人には辛くされ、清太と節子は横穴に住む。すぐに食い物なくなり節子はやせ衰え、人形を抱く力もはいらない。――お父ちゃん、今ごろどこで戦争してはんねんやろ、なあ、お母ちゃん。せや、節子覚えてるやろか、と口に出しかけて、いや…

福永武彦「退屈な少年」

十四歳の健二は退屈しきっていた。もちろん面白そうな動物や植物はある。けれどもいったん退屈であると宣言した以上は、何がなんでも退屈でなければならなかったのだ。僕はもう子供じゃない――。退屈で退屈でしかたがない健二少年、看護婦の三沢さん、少年の…

島尾敏雄「摩天楼」

私は眼をつぶるだけで私の市街のようなものを建設したり崩したりしてみせたりすることが出来る。この私の市街は夢の中の断片をつなぎ合わせたもので、人が密集しているかと思えば空き地があり崩れ落ちた場所があり、野原すらあるように思われる。私はこの市…

福永武彦「風花」

彼は療養所の孤独のなかに生きており、これから行く道も定かではない。詩をつくろうとした彼の思考は、何か別の力によって過去へと、周囲から愛されていた過去へと戻ろうとする。そのとき、彼の顔に何やら冷たいものが降りかかった。(ああ、風花か――)。何…

石川淳「夜は夜もすがら」

千重子はこれが何語かということすら知らない。この本を眺めているあいだが、一日のうちでもっとも清潔な時間である。字を見ても、字のわけがわからない。おもえば普段の生活の中で、何を見、なにを見たとおもったことだろう。そもそも見るとは何か。悟る、…

福永武彦「廃市」

十年も昔のことである。その時僕は卒業論文を書くために、一夏をその町のその旧家で過した。ひっそりとして廃墟のような寂しさのある町。古びた、しかし、すばらしく美しい町。だが、僕は知らなかった。この町の穏やかで静かな生活に隠された意味が何である…

埴谷雄高「《私》のいない夢」

暁方、白昼への目覚めが促されるとき、私は両腕をゆっくりと宙につきだしてみる。なぜなら白昼における存在は《それがそうとしか見えず、他の何をも考えられない》という罠であるから・・・。その時期、私は《私のいない夢》を敢えてみようと試みていたのだ…

北杜夫「第三惑星ホラ株式会社」

「第三惑星ホラ株式会社をつくろうと思う」「ホラを売るのかい?」「そうだ、ホラではなくホラのような真実を売る。ホラは売らずに本当とは思えないような真実を売るんだ。みんなはこれをホラと思って真実とは思わないだろう。もしホラのようなホラではなく…

埴谷雄高「神の白い顔」

「夢とはこれまでに意識の隅で見たものの組み合わせ」といわれるが、これは「《未知》を見よう」という私の決意を挫くものであり、そのために葛藤していた。また私は《存在》のすがたを見ようとしており、存在そのものを背後から眺めたいと渇望していた。こ…