林芙美子「夜の蝙蝠傘」

 戦地で右足を切断した英助は、もう死んでしまっても仕方がないと観念していた。いまから思えば、生きかえることを深く信じていたが、心の片隅の感傷は、生命と云う炎のまわりを、死んでも仕方がないぞと云いつづけていた。しかし英助は死ななかった。死んでしまうことが出来なかった。――誰が死ぬものかッ。俺は生きる、生きたいんだ!


 死のうとする願望と、生きたいという本心。それらが交互に現れる毎日を送ってきた「仏様のような男」と、男を甲斐甲斐しく世話をする天使のような女。彼らの素晴らしく愛情にあふれた「絆」が描かれます。けれども、素直に終わらないのが林芙美子です。ここに描かれる一晩の出来事が、「砲弾のように彼らの胸のなかに命中」し、ラストでは半回転のひねりが加えられた結果、本当の顔が出てきます。特に女の側の描き方が面白かったです。

 「――盗まれる方だって悪いンですよ。こんな世相では、盗る方だって、一つや二つの理由はありますからね。――だけど、私は人を信じています。」

 自分は毎日何かを想っている。そして、その何かが心の中で熟している。それでいながら、透明な諦めを表情に出して、己れをかくして生きている。