武田泰淳「鶴のドン・キホーテ」

 あまり長くつづく沈黙に気味わるくなったそのとき、鶴田が思いつめた様子で片手を懐に差し入れて、古新聞紙にくるんだつまらない包みをサメ子の方に差し出しました。そのときの彼の眼は異様な光を発していたのです。矛盾した怒りと悲しみのほかに、求愛のせつなさも混じっていて、どうみても狂的で濁っていました。「ほら、鶴田さんはわたしにすばらしい贈物をもってきてくれた。酒井さんも持ってきてくれなきゃ、だめよ」。サメ子が得意そうにひらいた包みには・・・。

士魂商才 (岩波現代文庫)

士魂商才 (岩波現代文庫)

 特攻隊員として死を前にした夜、肉の腐れ縁を抱えることになった鶴田と酒井、そしてそれを見ていた主人公。しかし、いずれも死なずに生き残り、終戦後それぞれの成長を遂げて再会します。主人公と酒井は有能なビジネスマンとなり、現代の生活を生きている。一方、鶴田は戦時中、いや、戦前と同じ姿をしていました。それが酒井によって破壊され、戦後の今は「おかしな人間」として地元では有名な存在に。
 時代とともに変わる風見鶏のような多くの人間とは異なり、「滅びゆく種族」としての侍と鶴をあわせもった鶴田の純情。その鶴田と酒井の間に、サメ子という女が配置されています。お金でヌード写真を撮らせる女で『入信している宗教の信者獲得のためにはどっちがいいか・・・』とそういう目線で両者を値踏み。そんな女の優柔不断と残酷さにより、さらに傷つけられる鶴田の苦悩。
 理解しやすいイメージがそれぞれに当てはめられていて、また、途中で登場人物が気持ちを正直に独白してくれるので、とても親切なメロドラマという印象です。
 なお、作品の舞台であるM市とは水俣市。化学肥料工場から出た廃液は、後に水俣病と呼ばれるようになります。後書きにもありますが、当時はまだ社会問題とはなっていなかった頃であり、貴重な資料のひとつとしても読めるかもしれません。

 「世は乱れている。素直な心はなくなった。侍はいなくなった。日本人のいいところはどこにもない」と彼は、低くつぶやいた。「策略だ、策略だ。何をやるにも策略ばかりだ」(略)
 そうつぶやく彼の調子は威圧的なものはなかった。むしろ寂しげな悲哀に満ちていました。」

 鶴の声がとだえたあとでも、僕の胸のなかには鶴という鳥の存在が残りました。滅びゆく種族の思いつめた切なさや、いさぎよい破滅に陥る気配がしみじみとという鳥の存在を感じました。

武田泰淳「歯車」

速水兄弟こそは本当の天才でした。兄の勘太郎さんには経営の才が、弟の勉次さんには職人の腕があった。だが私の拝見したところ、真の仕事の神様、発明の天才は弟さんの方だった。御ふたりの智能が歯車のように噛みあって、会社は大きくなったと世間一般は考えている。しかし、いくら兄弟とはいえ何の問題もなかったわけではない。否、はじめっから兄さんの方で速度を調節していたのであって、小さな危険はヒョイヒョイあらわれていたのです。

士魂商才 (岩波現代文庫)

士魂商才 (岩波現代文庫)

 天才兄弟による工作機械の会社は、またたくまに大きくなりました。しかし、経営というものに全く興味がない弟は、次第に扱いにくい存在になってしまいます。小規模な会社であるうちはいいのですが、大きくなって関わる人間が増えてくると、そうした尖がった人間が活躍できる場は少なくなります。兄のコントロールにより、弟の命は長引きますが・・・。天才は研究室でこそ輝きますが、いわゆる共同体、社会生活には向かないもの。そうしたセオリーと同じ道を、この兄弟も行きます。

武田泰淳「甘い商売」

 吉川冬次がサイパン島についたとき、N拓殖とM殖産の駐在員の出迎えはなく、集まってきたのは、痩せ衰えた日本人たちであった。夜になると宿舎の窓をこえて、奇妙な歌声が流れてくる。それは陰気で暗澹たるメロディだった。会社に対する怨みつらみ、やけくそな大声、哀れをさそう小声。自嘲の思いもまじっていた。「XXよく聴け、お前の末は、サイパンあたりで、のたれ死に」 やらなきゃならないと吉川は思った。彼らをどん底から救い出すためにも、失敗することだけはどうしてもできんぞ。

士魂商才 (岩波現代文庫)

士魂商才 (岩波現代文庫)

 大正末期のサイパン。2つの会社が本土から日本人を移民させ、砂糖事業を始めたが、いずれも失敗。しかし、会社は移民を引き上げさせることはせず、たった一人の社員を残して、すべて放ったらかしにしてしまう(なんて無茶な)。千人の日本人が、食糧の補給もなく栄養失調でやせ衰え、乞食なみの服装で餓死寸前・・・そこに単身乗り込んできたのが主人公。砂糖の技術者として有名な彼が独立して、サイパンで自らの会社を興します。現地に残された社員・八木を腹心として登用し、現地の労働者とともに様々な困難に立ち向かいます。文庫で20ページくらいと短いのすが、スケールが大きく、適度なアップダウンもあり、読みごたえのある作品となっています。
 仕事の失敗とフォローの欠如が、人間をひどく荒んだものにしてしまいました。暴動を起こすほどの元気もなく、彼らは完全に人生を諦めています。国へ帰る術もなく、生きる道も見えないので、宿舎の中で「お前の末は〜」と歌います。彼らは吉川の活躍により外気を吸いますが、穴倉に慣れてしまったのか、すぐにそこへと戻ってしまう。読者も彼らを思うと暗澹たる気持ちになりますが、しかし、主人公の吉川は明るいのです。うまく行っても行かなくても、ユーモアすらあります。この理由は単なる強がりか、それとも楽観的な自信なのか。その人間的魅力に引きつけられたからこそ、八木は最後の行動をとったのでしょう。私なら・・・どうかなぁ、出来るかなあ。「肉のロープ」の場面は、これぞ武田泰淳!といったところです。

「すると、彼らをひどい目に遭わせた、その同じ道だけが彼らを救えると言うわけですか」

長谷川四郎「鶴」

 そこは円形の小部屋で、外に出ているのは機関銃ではなくて、望遠鏡だった。敵陣地見取図には至るところに番号があり、敵がいることを意味していた。しかし望遠鏡からは肉眼では見ることのできないものが、はっきりと見えたのである。朝露のきらめいているゆるやかな斜面の草原があり、花畑で遊ぶタルバガンがあり、そして鶴がいた。望遠鏡をそれ以上動かぬくらい廻転させ、誰も見たことがない遠方に、鶴は美しく立っていた。すると背後から人間が銃を持って近づいて来て、鶴に狙いを定めたのである。

長谷川四郎 鶴/シベリア物語 (大人の本棚)

長谷川四郎 鶴/シベリア物語 (大人の本棚)

 長谷川四郎の代表短編。押しつけがましさがまるでないので、好感度がとても高い小説です。静かに語りかけてくるような文体は、読者に豊かな思索の時を与えてくれます。一気読みではなく、出来れば章ごとに足を止めて、ゆったりと浸りたい作品です。

 戦争中の出来事ですが、ここは激戦地帯ではありません。ひとりきりの狭い部屋から、望遠鏡で敵陣を監視するのが彼らの仕事。主人公は同僚の矢野と、静かな中に理解しあうという、安定した友人関係を築いています。
 毎日同じこと続きで暇なので、次第に緊張感が緩んできて・・・次第に望遠鏡の角度も緩んできます。そこには自由のない軍隊生活とは異なる、生きた人間の生活がありました。バレない程度の小さな反抗。それでも主人公はなんでもない車が大砲のように見えたりして、キュッと戦争の日々に戻される時があります。しかし、矢野はそんなレベルではありません。普段から上官に対する尊敬もなければ形式的な隷属もない。望遠鏡は敵陣どころか、あり得ない角度に向けられています。
 両者は「戦争」というものに対して、おそらく同じ気持ちを抱いています。個性をつぶす組織でも「何か」を忘れなかった矢野と、「中の人」になってしまった主人公は、望遠鏡の中にそれぞれに必要な「何か」を見ました(作中には「何か」という言葉が数度登場しますが、それぞれの意味を考えてみるのも面白いです)。そんな彼らのそれぞれの行動とは―――。

 そして、ばかやろう!の上官と、下働きする普通の人々。上官には(ある一瞬を除いて)人間味を全く与えず、ステレオタイプ張りぼてであり、ここに作者の反戦・反軍隊の思いを感じます。この構図は題材的にありきたりですが、しかし、長谷川四郎流は個性的。
 攻撃的なデモンストレーションでもなければ、被害者をアピールする姿勢もとりません。さらに履歴書に書かれるような表面的な個性は、ほとんど全てが慎重に削除してあります。仕事上重要な国境すら不明確に描いており、「これらの山々は敵地と呼ばれていた。なぜなら(略)中間には、例の国境線がはっきりと引かれていたからである」なんて、まるで他人事(このセンテンス、最高)。作者は戦争体験を持つ当事者ですが、それでありながら、どこか遠くの民話のように穏やかに物語を紡いでいます。・・・その心境に至らせたのは、どれほどの悲しみか。

 ちなみに長谷川四郎太宰治と同年生まれで、今年が生誕百年です。

 その瞬間、信号弾は突然、色を変えて赤い光を放ち見る間に夜空に吸われるように消えてしまった。それは子供の時に見た花火のように美しかった。それは、私たちの邂逅の一瞬間が、そこで火花を放ったかと思われた。そして、その消えていった真上あたりには、月光の中で一つ、かすかに輝いている星があるのを、私は見た。

武田泰淳「貴族の階段」

 節子は恥ずかしくて申しわけなくて、死にたいほどだった。全身がけいれんし、呼吸がみだれてくる。見つめる標的はかすんできて・・・起ち上ろうとする節子に、兄は思わず両腕をさし出した。節子はのろのろと起ち上ったが、ふたたび精も根も尽きはてたように倒れこんだ。抱かれるようにして、兄の腕の中に。先生が駆けよるまで、三秒か五秒、そのあいだ私はこう思っていた。ああ、とうとう。そして、この二人が抱きあうことは、もう永久にないのではなかろうか、と。

貴族の階段 (岩波現代文庫)

貴族の階段 (岩波現代文庫)

 主人公の永見子は17歳の貴族令嬢、次期首相候補の娘。家では日参する政治家と父との密談をメモする係りを務めています。時代は荒れていて、クーデターのうわさで持ちきりです。秘密の会話の結末は、後に二・二六事件と呼ばれるものになります。

 主要人物は、すべてを知っているような顔をしているものの、実際は何の根拠も持たない永見子。気が優しくて繊細で親孝行でありながら、根を張った生活への尊敬から軍隊に入り、クーデターの実行グループ(つまり父親の命を狙う側)に入ってしまった、兄・義人。クーデターの先導役の陸軍大臣の娘で、主人公のことを姉と慕い、同性愛の傾向を隠せない美少女・節子。

 ある日、兄が節子へ送ったラブレターをきっかけに、主人公はさまざまな形の恋愛に巻き込まれ、苦しみの中から生み出されるものを待ちます。女性の気持ちを知る作家らしく、嫉妬、羞恥心、欲望、好奇心といった、多感な彼女たちの気持ちの揺らぎが生き生きと描かれています。ここに政治小説の難解さはまったくなく、あるのは貴族的な「現実」への客観性と、彼女たちなりの心労、そして意外な決断力。とても読みやすい文体で描かれており、太宰治「斜陽」や三島由紀夫の小説を思い起こします。

 各グループはそれぞれが自分が正しいと信じて行動し、自らの命を投げ打つ覚悟で必死です。しかし、主人公はメモ係の傍観者。そんな彼女から見てみると、すべての行為が馬鹿馬鹿しい。「命令だけを頼みの綱として、高さの知れぬ岸壁を登ろうとする、必死さと淋しさ、子供じみたとまどい」、と・・・。理念を掲げた大事件も太古から繰り返されてきたものに過ぎず、どうせまた繰り返されますよ、それより、さあ、ご飯を食べましょうという「大山巡査のおかみさん」が正常だという達観は、主人公の少女というより、作者のもの。実力行使が日常だった時代に、傍観者を配置して熱を下げ、血の戦いの繰り返しをキッパリと否定します。



 作者は二・二六事件を描く目的では書いていない。武田泰淳が意図したのは、腐れかけた果物のような貴族社会と、思考の硬直してゆく社会にあっての女たちだったのではないかと思える。大山巡査の妻がもっとも生彩を帯びているところに、作者の書こうとした精髄があるのではないだろうか。(澤地久枝、解説より。ネタバレ防止のため一部改め)

 今日は、陸軍大臣が、おとうさまのお部屋を出てから階段をころげおちた。あの階段はゆるやかで幅もひろいのに、よく人の落ちる階段である。

「私はいつも、何かしでかそうとしている。また、事実、つまらないこといろいろやらかす。でも、根本的なところでは、何もしていないのよ。あなたの方は、自分では何もやるまいとしている。でも、結局は、あなたの方が、私をおどろかすのよ」

「ほんとに、死にたがっているのかしら」
と、私が言う。
「それは人間だもの、死にたくはないでしょう。でも、死にたがらないで生きのびようとするのは、男として恥ずかしいと信じてはいるでしょう」
「そういう男もいるし、そうでない男もいるわ」

石川淳「飛梅」

 愛情のかぎりに光子を育てた大八だったが、帰国してみると光子は不良になっていた。その間育てていた十吉の返事は歯切れが悪い。光子に逢うこと叶わず、ついと大八は立ちあがり、「おれは必ず光子に逢ってみせるぞ」と息まいてようやく外に出て行った。すると十吉はいそいで二階にひきかえし、ちゃぶ台につまずく勢いで押入のまえに駆け寄り、がらりとあけると、とたんに中から、「ばか」。

石川淳全集〈第3巻〉

石川淳全集〈第3巻〉

 荒れた土地の中、人間の精神が躍動し、花が咲き誇ったまま肉体が華麗に舞うストーリー。作者の筆は前半のゆったりとしたリズムから一転、人間の動作に追いつくために変化して、思いがけないほどエロティックな展開に突き当たります。このチェンジオブペースの見事さと、それを包み込む濃密な梅の香りが印象的。

 「それじゃ、ぼくがおまえの肉体に惚れたといったら……」
 「くすぐったいよ、助平。」
 ぴしりと、しなった平手の音が十吉の頬に鳴った。

中島敦「悟浄出世」

 悟浄は病気だった。彼は一万三千の妖怪の中で、最も心が弱い生き物だった。「俺は莫迦だ」とか「俺はもう駄目だ」とか「どうして俺はこうなんだろう」とか呟いていたのである。医師の魚妖怪に「この病には自分で治すよりほかは無いのじゃ」と言われ、とうとう悟浄は旅に出た。不安、後悔、呵責等がどうにかして癒されることを求めて――。

 主人公による自分探しの旅。これは彼の姿を追いながら、読者が自分に近い妖怪(=生き方)を探し出す小説です。生き方を見つけようとしている人、けれども見つけられずにいる人、あるいはまた、自分について悩むステージにいる人が読むと、様々な示唆が与えられると思います。悟浄とともに旅に出よう!
 ズバリの解答が得られるかどうかはわかりませんが、豊富な選択肢から「そうかもしれないね」と思える妖怪に出会うことと思いますし、この話を読んだすべての人が出会えたらいいなと感じる話です。(ちなみにこの本を読んだ2003年現在の私は「きゅう髯鮎子」に近く、「蒲衣子」とは離れています)

 「一概に考えることが悪いとは言えないのであって、考えない者の幸福は、船酔を知らぬ豚のようなものだが、ただ考える事について考えることだけは禁物である(略)」

 「渓流が流れて来て断崖の近く迄来ると、一度渦巻をまき、さて、それから瀑布となって落下する。悟浄よ。お前は今其の渦巻の一歩手前で、ためらっているのだな。一歩渦巻にまき込まれて了えば、奈落までは一息。その途中に思索や反省や低徊のひまはない。臆病な悟浄よ。お前は渦巻きつつ落ちて行く者共を恐れと憐れみとを以て眺めながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬとは十分に承知しているくせに、渦巻にまき込まれないからとて、決して幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々として離れられないのか。物凄い生の渦巻の中で喘いでいる連中が、案外、はたで見る程不幸ではない(少くとも懐疑的な傍観者よりも何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よお前は知らないのか。」