高見順「インテリゲンチャ」

 東大卒の満岡は、インテリに見合った仕事として、新聞の社説を書いていた。だが、最近、悩みを持ち始めたようである。結局、社説なんてトップの意向に従った、枠内の仕事なのではないか、だとするならば、タイピストと大差ないのではないか・・・。「観念」と「実在」のはざまに悩む生活に、突然事件が発生した。妹が家出し、妻のある男と同棲したのである。満岡にとってこれは、悩みを吹き飛ばす、現在進行形の竜巻だった。


 自分のことを「インテリ」と信じるエリート人間たちの思想的な新生。理知的なインテリが、情緒的な娘の行動に出くわします。中年の主人公は、母親には未だに子供のように扱われ、娘ほど年の離れた妹にも気圧されてしまいます。彼らは真剣に悩んでいます。しかし「インテリの悩み」を軽蔑した風刺作品にようにも思えたのは・・・おそらく私の嫉妬でしょうな(笑)。

島尾敏雄「勾配のあるラビリンス」

 私はたそがれの頃、大都会の真中に突き出ていて、街の屋根を見下す公園に現れた。ところがそのときに限って、他に人が誰も現われなかった。――私は空虚を前に発作に襲われ、走り出していた。人の影を求める。それは世間では普通の顔をしているが、実際は追いつめられた私の弱小感に響く。何によりかかれば此の街を平気で歩けるのだか分らない・・・。

 島尾敏雄、幻想サイドの個人的代表作。街を舞台にした迷路(=ラビリンス)に躍動する精神。街の隅っこで「私」が遭遇する出来事の数々。ストーリーはあるようなないような、夢の中を歩く感覚を抱く、とても不思議かつクールな幻想小説
 主人公は常に「怖れ」を抱いています。「世間並み」に憧れる自分、けれどもそこに飛び込んでいく勇気のない自分、それらをすべて客観視して自分を嫌悪する自分・・・マイナス方向に下降していく流れは止まりません。まるでブレーキの壊れた自転車のように、この「怖れ」は丘の上の公園から、いよいよ街へ向かって進んでいき、そして・・・。

 私はあの何となく淫蕩な夏の宵の都会の雑踏にまぎれ込むのが好きだ。ふとした横町に、素晴らしく自由で奔放でハイカラな場所があちらこちらに海の底の花々のようにひそかに開花していて、知らないのは私だけだというような焦慮さえ感じられて来る夏の宵の誘い。

石上玄一郎「気まぐれな神」

 敗戦により日本人は追いやられ、私はお菊さん家に下宿することになった。そこに彼女の友人のミセス・アトキンソンがたずねてきた。この人物、外見は日本人だが、態度や表情は西洋婦人に近い。お菊さんによると、彼女は戦争中は日本人を名乗っていたという。両生類か!

 自己中心的かつワガママな「ミセス・アトキンソン」に振り回されっぱなしの小心者「石上さん」について書かれた、読みやすくて軽快なエッセイ風作品です。忍耐を強いる生活を喜劇として描き、運命に従う戦後の日本人の生き方を示します。
 ユーモラスな語り口とは一見かけ離れたタイトルの意味は・・・というところが、見所のひとつ。それは今後についての所信表明となっています。

野間宏「顔の中の赤い月」

 戦争で生きる支えを失った男・北山年夫と、女・堀川倉子の出会い。彼らの関係の発展をジャマするのは、北山が戦場でつかんだ『自分のことは自分で解決するしかない』という戦場での哲学だった・・・。過去を清算しきれない段階での新たな出会いは、とうとう赤い月を呼ぶ。

暗い絵・顔の中の赤い月 (講談社文芸文庫)

暗い絵・顔の中の赤い月 (講談社文芸文庫)

 孤独からの社会復帰。事件・事故で得たショックからの新生。被害者グループによる相互ケアはむろん大切ですが、最終的な自立のためには自分自身で立ち上がるしかないのでしょう。これは宮部みゆき作「模倣犯」などでも描かれているように、この世に悲しみがある限り、永遠普遍のテーマではないでしょうか。ラストは短文の連続がリアルタイムな感覚を呼び、とても格好よく、ドラマのような場面となりました。

 人間が、一人の人間を幸福にするということは大変なことですよ。僕はまだ一人としてそんな人間に会ったことはありませんからね。もちろん、僕にはできなかった。

石川淳「喜寿童女」

 江戸下谷敷数奇屋町にいた名妓・花は、幼い頃から精気さかんで、生涯に男を知ること千人を越えた。それが天保四年癸巳三月一日、花女七十七歳の喜寿の賀宴のさなか、とつじょ行方知れずになった。そして花女は胡兆新伝来の甘菊の秘法により、老女変じて童女となり、将軍家斉に献上されたのである。

影・裸婦変相・喜寿童女 (講談社文芸文庫)

影・裸婦変相・喜寿童女 (講談社文芸文庫)

 推理小説的興味を持たせて、最後まで読者の興味を引っ張り続ける実録(?)歴史検証物の怪作です。こういった皮肉で軽快で色気のある作品を書かせたら、石川淳は本当にうまい。
 激動の時代に、意外の連続のストーリー。天下の将軍がそんなことを?伊藤博文のカバンの中にそんなものが?(実際、伊藤博文の女性関係は大変なことだったとか) まさか、けれども、これだけ証拠を挙げられると、もしや、いや、と逡巡するさなかに、ふと作者の方を見ると、そこには・・・ああ、最後の最後まで見事です。

梅崎春生「贋の季節」

 借金を踏み倒して夜逃げしてきたサーカス団は、この町でも悲惨な客入りが続いていた。そんなとき、私は「お爺さん」を舞台に出したらどうだろうか、と提案したのである。それは何の芸もなく、ただ叫んで逃げようとするだけの老猿である。ところがサーカス団には、猿の物まねを売りにしている三五郎がいた。プライド高い芸人魂を持つ三五郎は、私に喰ってかかってくる。


 この作品の不明確なユーモアの底にただよう暗さと諦めに、どのあたりで気づくかにより感じが違ってくる作品です。汗をかくピエロの姿に滑稽よりも悲哀を感じるならば、それは必然かと。
 現状に対する諦めと先行きに対する不安。存在が失われそうになったとき、戦う姿勢を見せますが、相手は猿。これは辛い。ズブズブとした沼の上に敷いた絨毯を、無理に笑顔を作って歩いてみせているような・・・かなり辛めのペーソス。

 「俺にはお客の気持が判らなくなってしまった。昔の客はそんなものじゃなかった。もし今の客が猿の物真似なぞを喜ぶんなら、俺はそうやるより仕方がないのさ。」

島木健作「黒猫」

 絶滅寸前のオオヤマネコは、人間を相手にしても、そこから逃げることはなかった。立ち向かうことすらしなかった。人間の頭上から後肢を持ち上げて小便を引っかけたのである!人間など、彼にとってその程度のものでしかなかったのである――!猫に理想を託した、美学。

 病床にある主人公は、自由に動き回る猫に自分を託し、その大胆不敵さに自分を賭けます。けれども、その猫が相手をする人間は、現実に生きる主人公であるように思われます。退屈によってあぶりだされたユーモアの熱風は、黒猫への「期待度」のアップダウンとともに現実の方向へと向かっていくのでした。

 誰よりも熱心な旅行記の読者は病人にちがいないということを信ずるようになった。