黒い微笑

石上玄一郎「気まぐれな神」

敗戦により日本人は追いやられ、私はお菊さん家に下宿することになった。そこに彼女の友人のミセス・アトキンソンがたずねてきた。この人物、外見は日本人だが、態度や表情は西洋婦人に近い。お菊さんによると、彼女は戦争中は日本人を名乗っていたという。…

石川淳「喜寿童女」

江戸下谷敷数奇屋町にいた名妓・花は、幼い頃から精気さかんで、生涯に男を知ること千人を越えた。それが天保四年癸巳三月一日、花女七十七歳の喜寿の賀宴のさなか、とつじょ行方知れずになった。そして花女は胡兆新伝来の甘菊の秘法により、老女変じて童女…

島木健作「黒猫」

絶滅寸前のオオヤマネコは、人間を相手にしても、そこから逃げることはなかった。立ち向かうことすらしなかった。人間の頭上から後肢を持ち上げて小便を引っかけたのである!人間など、彼にとってその程度のものでしかなかったのである――!猫に理想を託した…

三島由紀夫「命売ります」

まったく社会がゴキブリに見えたのだ。羽二男は自殺に失敗したことで軽くなり、これまで感じたことのないような気持ちになった。何もかもどうでもよく、生き死にを超越したのだ。そこで三流新聞に広告を出した。「命売ります。当方27歳。秘密は守ります」。…

坂口安吾「盗まれた手紙の話」

兜町の投機会社に飛び込んできた、見知らぬ精神病院からの分厚い手紙。そこには予言を得るようになったという、元駅員の患者が書いた几帳面な文字がびっしりと並んでいた。饒舌につづられた手紙の内容は、果たして嘘か誠か――。暇つぶしに楽しんでやろうかと…

織田作之助「鬼」

流行作家の彼はいくら溜め込んでいるかと軽蔑されていたが、私のところに金の相談に来た。「何を買っているんだ?」「煙草だ。一日7,80本は確実で、100本を超える日もある」。減らせと言っても、けちけち吸うと気がつまり、仕事に影響が出るのだという――全…

深沢七郎「因果物語―巷説・武田信玄」

武田信玄は三百五十年も前に死んだ人なのである。けれども甲斐の国の百姓たちにとっては、今でも立派な人といえば信玄公よりほかにいないし、偉い人というのも信玄公よりほかにはないのである。水騒動や税法の一件のときも、村人にとっての「シンゲンコー」…

深沢七郎「みちのくの人形たち」

みちのくに住むヒトに誘われて、私は東北に行ったのである。そのヒトは家など一軒もないような山に住んでいた。どういうわけかこのあたりの人たちは、三十五、六歳のあのヒトを「ダンナさま」と呼んでいる。食事が終った頃、青年がやってきて「産気づいたか…

石川淳「和頭内」

御存じ和唐内、なにをいうかとおもえば「つらくってかならねえ」。豪傑のセリフとも思えない。子分のもーる左衛門、じゃが太郎兵衛は、サーヴィスすなわち百戯すなわち雑芸をうつ。しかるにこれは三日でつぶれた。横町に一日遅れで開幕したこれも百戯の評判…

椎名麟三「ある不幸な報告書」

石本家では税金滞納により家具一式が差し押さえられた。妻・とり子は、家が彼女の家ではなくなったように感じられたが、国家権力により認められた家具により、石ころのような自分たちにも光を当ててもらえた思いもした。まもなく、夫の浜太郎ら一家四人が帰…

安岡章太郎「蛾」

私は医者を好まない。それは私の身体を、他人に知られることが不愉快だからであろう。近所には芋川医院があるが、まったく流行していない。きっと彼も私と似ているのだ。医院が流行らないことが近所や家族に恥ずかしくてならず、あんな奇怪なことをしでかし…

獅子文六「てんやわんや」

私は犬丸順吉、29歳。謙遜ではなく、平凡な人間であり、そして全てによく服従する。それが私の性格であり処世の術である――。影で愚痴っても面と向かっては何も言えない、サラリーマン的悲哀を見せる主人公が、敗戦直後の1年間をいかに過ごしたかを生真面目(…

小沼丹「カンチク先生」

ジス・イズ・ゼエムス、これはゼエムスなり。これはゼエムスにて候、でも宜しい。小学校の頃英語の個人教授を受けたカンチク先生は、難しい日本語で訳すのが好みだったのだろう、必ず最初は僕に判り兼ねる訳を附けた。またあるときは、どうしてか判らぬが、…

遠藤周作「男と九官鳥」

新入患者が九官鳥を持ちこんできて以来、僕ら患者たちは少し違った午後を過ごせるようになりました。薄笑いをするだけのその患者に代わって鳥の世話をし、婦長の悪口を教え込んだりしました。けれども九官鳥は異様な臭気を発しましたし、何一つ言葉を覚えて…

伊藤整「文学祭」

坪内逍遥先生の逸話を申し上げます。先生は学校を落第してみせることで、日本の文学者に範を垂れたのでありました。夏目漱石も落第しました。永井荷風は入学試験に落ち、萩原朔太郎や太宰治も中退しました。これはすべて偉大なる精神の特色であります。彼ら…

深沢七郎「楢山節考」

おりんはこの冬に楢山に行くことを決めているのである。その山はとても遠くにあるのである。村は食料が乏しいために、家族が多いと冬を越せないのである。でもまだ秋である。この年になっても元気なおりんは、自分の年寄りらしくない姿が恥ずかしかったので…

牧野信一「ゼーロン」

はるか村まで行かなければならないが、険しい道にも連れがいる。あのときのコンビ復活、愛馬ゼーロンとの遠出再び。けれども、おお、酔いたりけりな、僕のペガサス、ロシナンテは、しばらく見ないうちに驢馬になっていた――。私に舌を噛ませようとしたり、転…

梅崎春生「侵入者」

玄関扉をあけたとたん、見知らぬ男たちがずかずかと上がってきた。1人が言った、「大丈夫ですよ、この家には写真をとられる義務があります」。・・・義務?この家はむろん彼のものだ。けれども、彼は所有を示す方法を知らない。男たちは三脚を準備しはじめ…

安岡章太郎「走れトマホーク」

私たちは巨大ビスケット会社の招待で、アメリカ西部を団体旅行していた。大歓迎を受け、楽しいときをすごし、そして次の町へ行く。はじめは気楽な旅行だった。だが、その間、会社は特に何の宣伝を要求することもなく、誰から何を言われることもなかった。そ…

尾崎一雄「蜜蜂が降る」

今日もまた200匹ほどの蜜蜂が、我が家の樹の繁みから降ってくる。どの蜂も身をまるめた格好で動く様子がない。私は蜜蜂の生態について、結構いろんなことを識っている。たとえば「蜜蜂がもつ特攻精神」のことや「老蜂を淘汰して行う新陳代謝」のことなどであ…

小山清「落穂拾い」

小説家の僕は、いつも一人で過ごしている。ときどきは一日中言葉を話さないこともある。ああ、これはよくない。誰とでもいい、ふたこと、みことでもいいのだ。お天気の話をするだけでもいい。人恋しい気持に誘われる。――誰かに贈物をするような心で書けたら…

太宰治「ロマネスク」

むかし津軽の庄屋に、太郎という男の子が生れた。これは生れるとすぐに大きいあくびをし、動くこといっさいを面倒がるのである。彼はいつも退屈そうに過ごしていた。そして、はやくも三歳のときにちょっとした事件を起し、そのお蔭で太郎の名前が村のあいだ…

深沢七郎「おくま嘘歌」

おくまは数えどしなら64で、「ワシなんか、厄介者でごいすよ」とよその人には言うのだったが、腹のなかでは(まだまだ、そんねに)と思っているのだった。おくまは葱も茄子もダイコンもトマトもジャガ芋もいんげん豆も作っているうえに、鶏を30羽も飼って…

太宰治「畜犬談」

諸君、犬は猛獣である。彼らは馬をたおし、獅子をも征服するというではないか。いつなんどき怒り狂い、その本性を発揮するかわからない。世の多くの飼い主は、さながら家族の一員のようにこれを扱っているが、不意にわんと言って喰いついたら、どうする気だ…

吉行淳之介「手鞠」

かつてたびたび肌を合わせた女に声をかけられたとき、彼は思わず雑沓にまぎれこむ姿勢になった。この女に対して逃げ隠れする理由も、彼はもっていないのに――。彼と友人の男は、女の後をついて、街の裏側へと歩み込んでいく。はじめてその種のことを経験した…

石川淳「霊薬十二神丹」

助次郎はたわいない口論から蹴たおされ、一刀により肝腎なものをすぽりと切りおとされた。神医につかえてきた弟は、つちかった秘術を兄のために使った。天地の霊をこめた丸薬を用いることで、かのものは元の位置にもどったのである。だが、様子のことなると…

北杜夫「第三惑星ホラ株式会社」

「第三惑星ホラ株式会社をつくろうと思う」「ホラを売るのかい?」「そうだ、ホラではなくホラのような真実を売る。ホラは売らずに本当とは思えないような真実を売るんだ。みんなはこれをホラと思って真実とは思わないだろう。もしホラのようなホラではなく…

島尾敏雄「接触」

私も含まれていたが、近くの席にいた七人は授業中にアンパンを食べた。それは規則で正しくないこととみなされ、その罰は死刑である。くつがえすことのできない校則第十九条に記された規則は、空気ほどの抵抗もなくみんなに受け入れられた。私たちは裁縫室に…

安部公房「無関係な死」

Aなにがしが自分の家に帰ってきたとき、見知らぬ男が死んでいるのを発見した。麻痺状態から立ち直っても助けを呼びに行くことはできなかった。・・・これは彼を陥れようとする狡猾な犯人の罠かもしれない。けれども目の前にある死体もいつまでも大人しくして…

松本清張「赤いくじ」

純情で嫉妬深い楠田参謀長と、町医者出身でかつて女にでたらめだった末森高級軍医は、この朝鮮の平和な町で塚西夫人の心を得ようと争っていた。夫人は二人に、平等に接しているようだった。化粧の濃淡も笑い声の回数も、全く同じように見えた。二人の競争は…