獅子文六「てんやわんや」

 私は犬丸順吉、29歳。謙遜ではなく、平凡な人間であり、そして全てによく服従する。それが私の性格であり処世の術である――。影で愚痴っても面と向かっては何も言えない、サラリーマン的悲哀を見せる主人公が、敗戦直後の1年間をいかに過ごしたかを生真面目(本人はそう思っている)に語る長篇。

てんやわんや (新潮文庫)

てんやわんや (新潮文庫)

 すっとぼけた主人公が、自分の歩みを一人称で語りとばします。彼は自らの順応性の高さを自慢するのですが、生きるうえでの問題は主体性のあるなしです。ところが本人はそこに全く気づいていないため、読者と主人公との間には気分のギャップが感じられるようになるでしょう。
 それはページを繰るごとに大きくなります。この違和感は初めは笑えるポイントとして存在しますが、次第に主人公に対して異なる感情を持つようになりました。これは間違いなく作者の狙いであり、書かれているものをそのまま読むだけでは、決して気づかない部分であるように思います。
 また、田舎と都会、それぞれに住む人の人情や風習、さらに景色の描写も本書の魅力です。