2005-04-01から1ヶ月間の記事一覧

堀田善衛「ルイス・カトウ・カトウ君」

ルイス・カトウ・カトウ君は、キューバで私についてくれた現地ガイドである。このカトウ君、日本語の読み書きはほとんど出来ず、町の様子にも通じていない。けれども「アチーネ、アチーモンネ」と繰り返しながら、「ドコサイクカネ」と行こうとしている。そ…

萩原朔太郎「ウォーソン夫人の黒猫」

いつものように仕事を片付け、部屋に帰ってきた時、ウォーソン夫人は何物かが中にいることを直感した。しかし、部屋の中には一人の人間もいなかった、ただ、見知らぬ黒猫が一匹坐っていたのである。全ての出入口は閉まっていたのに・・・。どこから入ってき…

小沼丹「カンチク先生」

ジス・イズ・ゼエムス、これはゼエムスなり。これはゼエムスにて候、でも宜しい。小学校の頃英語の個人教授を受けたカンチク先生は、難しい日本語で訳すのが好みだったのだろう、必ず最初は僕に判り兼ねる訳を附けた。またあるときは、どうしてか判らぬが、…

三浦朱門「傷だらけのパイプ」

落第して当然の学生を前に、福山は評価を下せないでいた。落第することで彼の人生はどうなるのだろう。だが、彼を卒業させたとしても、社会の害毒を生み出すことになるのではないか。また学生は土下座をしながら「許してください」と言ったのだが、許す、と…

井上靖「セキセイインコ」

そのとき私は庭に目をむけて、おや!と思った。二十羽ほどの雀の群れの中に、一羽だけ、セキセイインコが混じっていたのである。色も違えば形も違う。どこからどう見ても別物という感じである。けれども彼らは一緒にやってきて、一緒に西の方へ翔んで行った…

遠藤周作「男と九官鳥」

新入患者が九官鳥を持ちこんできて以来、僕ら患者たちは少し違った午後を過ごせるようになりました。薄笑いをするだけのその患者に代わって鳥の世話をし、婦長の悪口を教え込んだりしました。けれども九官鳥は異様な臭気を発しましたし、何一つ言葉を覚えて…

安岡章太郎「サアカスの馬」

何の特徴も取得もない僕は、担任の清川先生から諦められていた。叱られることもなく、じっと見つめられるのだ。そんなとき僕はくやしい気持にもかなしい気持にもなれず、ただ、目をそむけながら(まアいいや、どうだって)と呟くのだった。そんな少年の前に…

横光利一「機械」

私の家の主人は必ず金銭を落す四十男であり、こういうのを仙人というのかもしれないが仙人と一緒にいるものははらはらしなければならぬものだ。このネームプレート製造所の仕事は見た目は楽だが薬品が労働力を奪っていくのである。私は次第に仕事のコツを覚…

江戸川乱歩「押絵と旅する男」

蜃気楼を見に行った帰りの汽車内には、客はたった一人しかいなかった。その先客は一見四十前後だが顔じゅうにおびただしい皺があり、そして持っていた荷物は生きた人間が描かれた絵・・・。するとその奇怪な男と目があってしまい、私の体は恐怖を感じる心と…

伊藤整「文学祭」

坪内逍遥先生の逸話を申し上げます。先生は学校を落第してみせることで、日本の文学者に範を垂れたのでありました。夏目漱石も落第しました。永井荷風は入学試験に落ち、萩原朔太郎や太宰治も中退しました。これはすべて偉大なる精神の特色であります。彼ら…

島尾敏雄「子之吉の舌」

ネノと呼びかけても子之吉は振り返らない。弱虫だけじゃなくて横着なやつだ。父親の巳一はそう思った。巳一が手を出して叱ると、子之吉の目におびえが走る。巳一はその表情に愛着を覚えたが、それに反して眼は坐ってきた。二三回振り廻して投げ落としたら、…

深沢七郎「楢山節考」

おりんはこの冬に楢山に行くことを決めているのである。その山はとても遠くにあるのである。村は食料が乏しいために、家族が多いと冬を越せないのである。でもまだ秋である。この年になっても元気なおりんは、自分の年寄りらしくない姿が恥ずかしかったので…

尾崎翠「詩人の靴」

薄暗い屋根裏部屋に、貧しい詩人の津田三郎が住んでいた。彼は世の中とか人間とかに恐怖と嫌悪を持っていたので、この部屋はその性情に適っていた。机から二歩で窓から外界を眺められ、さらに二歩で寝台へ逃れることが出来るのだ。ところがある朝、三郎は物…

三島由紀夫「橋づくし」

三人にはそれぞれ切実な願いがある。それはいずれも人間らしいものだから、月は叶えてやろうと思うにちがいない。けれども今夜は同行者がいる。無口で醜い女中のみなである。みなにも願いがあるのだろうか、生意気に。――月下に七つの橋を渡る散歩には、いく…

開高健「玉、砕ける」

張立人は私が香港へ来るたびに会うようになった、初老の友人である。彼との話題は東京では笑い話になりそうだが、ここでは痛切な主題なのである。つまり、どちらか一つを選べ、選ばなければ殺す、沈黙も殺すといわれ、どちらも選びたくなかったときに、どう…