横光利一「機械」

 私の家の主人は必ず金銭を落す四十男であり、こういうのを仙人というのかもしれないが仙人と一緒にいるものははらはらしなければならぬものだ。このネームプレート製造所の仕事は見た目は楽だが薬品が労働力を奪っていくのである。私は次第に仕事のコツを覚えたが一緒に働く軽部はそれに嫉妬し、私の顔にカルシュームの粉末を投げつけて首を持って床の上へ投げつけた。

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)

 笑ったり感心したり、隅々まで満喫できる滅多にない小説です。徹底的にコミカルですが、徹底的に知的です。心を体から分離させて突き放してしまい、自己と他者との関係を語りつくします。それはツッコミを入れたくなるほどであり、大変な出来事が起こるにもかかわらず、作品からは不思議に陽気な印象を受けたりします。物事にはいろんな見方があるという真実が、不快、尊敬、愛情、軽蔑、そういった心の動きを交えながら、句読点も少なく単独走する文体で描かれます。

 丁度そういうときまた主人は私に主人の続けている新しい研究の話をしていうには、自分は地金を塩化鉄で腐蝕させずにそのまま黒色を出す方法を長らく研究しているのだがいまだに思わしくいかないのでお前も暇なとき自分と一緒にやってみてくれないかというのである。私はいかに主人がお人好しだからといってそんな重大なことを他人に洩して良いものであろうかどうかと思いながらも、全く私が根から信用されたこのことに対しては感謝をせずにはおれないのだ。いったい人というものは信用されてしまったらもうこちらの負けで、だから主人はいつでも周囲の者に勝ち続けているのであろうと一度は思ってみても、そう主人のように底抜けな馬鹿さにはなかなかなれるものではなく、そこがつまりは主人の豪いという理由になるのであろうと思って私も主人の研究の手助けなら出来るだけのことはさせて貰いたいと心底から礼を述べたのだが、人に心底から礼を述べさせるということを一度でもしてみたいと思うようになったのもそのときからだ。だが、私の主人は他人にどうこうされようなどとそんなけちな考えなどはないのだからまた一層私の頭を下げさせるのだ。つまり私は暗示にかかった信徒みたいに主人の肉体から出て来る光りに射抜かれてしまったわけだ。奇蹟などというものは向うが奇蹟を行うのではなく自身の醜さが奇蹟を行うのにちがいない。