言語空間の実験

島尾敏雄「勾配のあるラビリンス」

私はたそがれの頃、大都会の真中に突き出ていて、街の屋根を見下す公園に現れた。ところがそのときに限って、他に人が誰も現われなかった。――私は空虚を前に発作に襲われ、走り出していた。人の影を求める。それは世間では普通の顔をしているが、実際は追い…

武田泰淳「第一のボタン」

近未来。死刑囚スズキは、ある日、司令部に呼び出されて「ボタンを押す」という司令を受けた。あまりにも簡単であっけない仕事である。意志をもたない愚かなスズキは、さほど考えることもなく、指令通りにそのボタンを押す。それは戦争相手の首都を破壊する…

横光利一「機械」

私の家の主人は必ず金銭を落す四十男であり、こういうのを仙人というのかもしれないが仙人と一緒にいるものははらはらしなければならぬものだ。このネームプレート製造所の仕事は見た目は楽だが薬品が労働力を奪っていくのである。私は次第に仕事のコツを覚…

江戸川乱歩「押絵と旅する男」

蜃気楼を見に行った帰りの汽車内には、客はたった一人しかいなかった。その先客は一見四十前後だが顔じゅうにおびただしい皺があり、そして持っていた荷物は生きた人間が描かれた絵・・・。するとその奇怪な男と目があってしまい、私の体は恐怖を感じる心と…

尾崎翠「詩人の靴」

薄暗い屋根裏部屋に、貧しい詩人の津田三郎が住んでいた。彼は世の中とか人間とかに恐怖と嫌悪を持っていたので、この部屋はその性情に適っていた。机から二歩で窓から外界を眺められ、さらに二歩で寝台へ逃れることが出来るのだ。ところがある朝、三郎は物…

萩原朔太郎「猫町」

私は、道に迷う。意図的に、道に迷う。不安から抜け出したところに、快楽があるために他ならない。その日も私は、道に迷っていた。ところがそのとき現れたものは、全く見ず知らずの町であった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう?どうしてこんな…

牧野信一「吊籠と月光と」

僕は自己を三個の個性A〜Cに分け、それらを架空世界で自由に活動させて息抜きを持つ術を覚えていた。この糸口は、息苦しさで破裂しそうになりながらじっとしていた僕に、インヂアン・ダンスを躍らせたのである。空想させてやるだけで、僕の頭は、ベリイ、ブ…

石川淳「曾呂利咄」

奉行石田光成来訪の知らせに、はてと立ち上がった曾呂利新左衛門、これは知部殿と盃あげるが、いや、今宵人知れず参ったのはそなたの智慧を拝借するためだ、まず聴け、と語ったところによれば酒樽が不思議な盗まれ方をするといい、そなたの器量にぜひ頼む、…

石川淳「修羅」

時は応仁の乱世、小さな戦のひとまず片付いた河原にて。足軽の死骸の間より、ゆらゆらと生身の女がにおい出た。あたりに目をくばったのは、陣から抜け出した山名の姫。都にもおそれられた古市の里に下り、主とちぎりをむすんだ女は数万のかしらとなって都へ…

中上健次「重力の都」

女郎にもこんなに好きなのはめったにいないと声を掛けると女は笑いながらその事が好きでしょうがないと言い、それから思いついたように死んだ御人はひどいことをすると言い、何度も何度もして欲しいと言った――。「死んだ御人」の影響下で行われる男女の語らい…

島尾敏雄「摩天楼」

私は眼をつぶるだけで私の市街のようなものを建設したり崩したりしてみせたりすることが出来る。この私の市街は夢の中の断片をつなぎ合わせたもので、人が密集しているかと思えば空き地があり崩れ落ちた場所があり、野原すらあるように思われる。私はこの市…

埴谷雄高「神の白い顔」

「夢とはこれまでに意識の隅で見たものの組み合わせ」といわれるが、これは「《未知》を見よう」という私の決意を挫くものであり、そのために葛藤していた。また私は《存在》のすがたを見ようとしており、存在そのものを背後から眺めたいと渇望していた。こ…

福永武彦「未来都市」

死に憑かれて放浪を繰り返していたその時、僕はヨーロッパのどこかの都会で「BAR SUICIDE」という酒場を見つけた。「死にたければ、特別のカクテルを出しますよ」。バアテンの言葉に誘われるまま、僕はグラスを口へ運ぶ。隣にいた男が、バアテンが叫び、そし…

埴谷雄高「追跡の魔」

逃げつづける夢、というのがある。そこでは誰もが「決定的な大罪」を犯した者であり、暗黒の追跡者から逃げつづけるのである。この夢は、私にめざましい啓示を与えた。いつまでも逃げつづけられれば、すなわち夢を見つづけるならば、やがて宇宙の果てへ辿り…

埴谷雄高「闇のなかの黒い馬」

真夜中過ぎ、遠い虚空から一匹の黒馬が駆けおり、鉄格子のはまった高窓から音もなく乗りいれてくる。黒馬の柔和な目に誘われて尾の先を握りしめると、ふわりと浮いた私の体は暗黒の虚空へ向って進みはじめた。もしこの手を放さなければ、《ヴィーナスの帯》…

安部公房「時の崖」

おれって馬鹿なのかもしれないなあ。なんでこんなことやってるんだろうって、ときどき考えちゃうんだよ。おれも前はチャンピオンにある気でいたけど・・・でもチャンピオンだって、落ちるのは早いぞ。チャンピオンの向う側が、いちばん急な崖なんだから・・…

花田清輝「鳥獣戯話」

『武田三代軍記』によれば、信玄の父親・信虎は完璧な極悪人であったようだ。あげくに息子に追放されるのだが、これが隠退なのかクー・デターなのかという点は、『武田信玄伝』にあるように数百年にわたる論争となっている――。武田信虎を中心として、歴史を…

福永武彦「飛ぶ男」

彼が乗ったエレヴェーターは彼の意識を飛ぶ鳥のように8階に残したまま、もう1つの彼の意識を撃たれた鳥のように無抵抗に落下させる。僕ハ魂ヲ置イテキタ・・・。彼は病院から戸外に出て行く。これが本物の明るさだ。彼の視線は植物や雑誌を素通りし、屋根の…

安部公房「デンドロカカリヤ」

去年ちょっとだけ『植物』になったコモン君が受け取った1通の手紙。「あなたが必要です。それがあなたの運命です」。これをきっかけにコモン君に例の発作が表れたんだね。裏返りそうになる顔を隠しつつ、他人の目から逃れながら、人の流れにのって歩きつづけ…

伊藤整「幽鬼の街」

十数年ぶりに訪れた小樽の町で、元不倫相手は老女となって迫りくり、親切だった先輩は死臭を漂わせながら宗教を語る。便所に入ると隣室から女声が聞こえ、川のせせらぎはいつしか人間の姿に変わる。卑怯だった青年期に係わり合い、私のために人生を崩し死ん…

安部公房「S・カルマ氏の犯罪―壁―」

朝おきると、胸のなかがからっぽになっていました。ぼくは自分の名前を想出せないことに気づきました。仕事場ではぼくの「名刺」が働いていて、僕の居場所はなくなりました。からっぽなまま家に帰ると、服やネクタイがクーデターを起こして・・・名前を失い…

坂口安吾「風博士」

諸君は偉大なる風博士を御存知であろうか?――警察の計算のごとく、博士は自殺を装ったのではない。否否否。偉大なる風博士は明らかに自殺したのである。風博士の遺書を読まれることで、諸君らは深い感動を催し、憎むべき蛸博士に対して劇しい怒りを覚えられ…

石川淳「虹」

公私共に充実した社長・大給小助のもとに、突然かかってきた一本の電話。それはあらゆる嫌疑を不思議と逃れ、時代の寵児となった悪魔・朽木久太からのものだった。奴は何を考えているのか、何を起こそうとしているのか。小助は得意の弓を持った。この来訪者…