島尾敏雄「勾配のあるラビリンス」

 私はたそがれの頃、大都会の真中に突き出ていて、街の屋根を見下す公園に現れた。ところがそのときに限って、他に人が誰も現われなかった。――私は空虚を前に発作に襲われ、走り出していた。人の影を求める。それは世間では普通の顔をしているが、実際は追いつめられた私の弱小感に響く。何によりかかれば此の街を平気で歩けるのだか分らない・・・。

 島尾敏雄、幻想サイドの個人的代表作。街を舞台にした迷路(=ラビリンス)に躍動する精神。街の隅っこで「私」が遭遇する出来事の数々。ストーリーはあるようなないような、夢の中を歩く感覚を抱く、とても不思議かつクールな幻想小説
 主人公は常に「怖れ」を抱いています。「世間並み」に憧れる自分、けれどもそこに飛び込んでいく勇気のない自分、それらをすべて客観視して自分を嫌悪する自分・・・マイナス方向に下降していく流れは止まりません。まるでブレーキの壊れた自転車のように、この「怖れ」は丘の上の公園から、いよいよ街へ向かって進んでいき、そして・・・。

 私はあの何となく淫蕩な夏の宵の都会の雑踏にまぎれ込むのが好きだ。ふとした横町に、素晴らしく自由で奔放でハイカラな場所があちらこちらに海の底の花々のようにひそかに開花していて、知らないのは私だけだというような焦慮さえ感じられて来る夏の宵の誘い。