2004-02-01から1ヶ月間の記事一覧

佐多稲子「夜の記憶」

作家の彼女は電車を乗り間違えてしまった。今晩はもうどうしようもないため、宿を求めて知人のいる駅に降りたった。以前も泊めてもらったが、今回はちょっと気が引ける。なぜなら彼女は先日、共産党を除名されたからである。迷惑をかけるんじゃないかしら、…

石川淳「明月珠」

正月元旦、わたしが神社にかけた願い、それは、一日も早く自転車に乗れるようになりますように――。自転車に乗れないために就職出来なかったわたしとしては、暗い地下から脱出して明るい地上に生きるために、なんとしても自転車に乗れるようにならなくてはな…

牧野信一「鬼涙村」

私と水流舟二郎君は、毎年恒例の鬼涙村祭に用いられるお面作りの仕事仲間であった。完成したお面を届けに久しぶりに外出すると、村には祭りが近づいている景色が見受けられた。だが、私にとっての祭りは決して楽しみばかりではない。祭りの背後では秘密結社…

井伏鱒二「遥拝隊長」

戦争から帰ってきた悠一ッつあんは、気が狂ってしまっていた。普段はとても良い青年なのだが、ときどき軍隊時代を思い出して青年たちに命令を下すのである。逃げ出そうとすると「逃げると、ぶった斬るぞォ」とくるので、村の人は、しようがないなあ、と従っ…

安倍公房「赤い繭」

おれには家がない。おれには休む場所がない。道に落ちている縄の切端が語りかけてくる。兄弟、休もうよ。おれは首をくくりたくなった。だが、まだ休めないんだよ。おれには家がない、その理由がわからないからだ――。この世はこれだけ広いのに、おれの家はど…

牧野信一「夜見の巻 「吾ガ昆虫採集記」の一節」

人はゼーロンと私との関係を仲が良いと勘違いしているが、とんでもない、ヤツは私の宿敵である。見るだけで腹が立つ。だが、この若者の前ではしっかりとしたところを見せておこう。軽やかに発足の合図をかけたのだが、ゼーロンが再び歩き出すのは私の「動」…

牧野信一「鬼の門」

村人のほとんどは村名物の暴風に備えて、今まさに懸命に養生しているのだ。のんきに本を読んでいる暇はないのだが、私は本の中に生きる冒険者である。破産はしていたが「華やかなる武士道」に生きているのだ。・・・屋根の上の敵襲に対し、先祖が着けていた…

牧野信一「鱗雲」

昔、この町では百足凧の大きさや豪華さを競った凧揚げ大会が繰り広げられたものであり、子供の頃の私も大いに魅了されたことを覚えている。そうだ、子供たちにあの光景を見せてあげるために、自分の手で百足凧を作ってみよう。だが、作業をはじめようとして…

牧野信一「月あかり」

誰も彼もがあだ名で呼び合っている村のお話である。何故かこのあたりでは古来から大概の男は仇名の方が有名で、いつの間にか当人さえも自分の本名を忘れている者さえ珍しくありません。私にくる音取かく(おかく)からの手紙の宛先も間違いだらけで、牧野が…

牧野信一「剥製」

ある日、疎遠になっていた母から「法要のため帰りなさい」との手紙が届いた。道のりは遠いため急がなければならないが、神経性の病に加えて貧弱な私の歩みは遅れる一方だ。同行者は私に老馬・Zの前を歩かせることにしたが、いつもZを苛めていた私は、やつに…

牧野信一「バラルダ物語」

それにしても最近の日照りは厳しく、水のない水車小屋ほど淋しいものはない。水車を長年動かしてきた一家は、雪五郎を筆頭に全員が筋肉豊富だが、これではその力を生かすこともなく、生活もおぼつかない。それでも近づく、お祭りの日。債権だの日照りだのと…

牧野信一「西部劇通信」

この写真を御覧。一見すると、まさにアメリカ・インディアンの屯所と見られるだろうが、よくよく見ると僕をはじめ君の知っている顔があるだろう。ここの人たちは僕が着ているインディアン・ガウンを見て、「おお、都の流行スタイルはこれか!」ととりちがえ…

牧野信一「雪景色」

引越しを控えた小説家の瀧は、庭にいる鯉の処分のことを考えていた。ところが金魚屋が高額に引き取ってくれることを知ると、雇人・AとBに指図して一匹残らず生け捕りしようと鯉捕りの采配を振るうのだった。AとBが必死に働く池を眺めるうち、瀧の思いは…

高見順「或るリベラリスト」

奥村氏は大正期の作家であるが、現在も旺盛に勉強に励んでおり、とにかく若くてみずみずしい。今日も青年向けのセミナーに出席していて、若手の文芸評論家・秀島らはその姿に感心しきりであった。氏も若い人たちと接することで「青春がかえってきた」と機嫌が…

武田麟太郎「銀座八丁」

勤め先のマダム・あき子は昨夜泥酔のあげくに発病したらしく、すっかり元気をなくした様子。店の内情を知るバーテン藤山は、表立ってはマダムに媚びながら、いつも身の振り方を考えていた。その場合、彼女及び店の資金源である内田、このお人よしを利用しな…

牧野信一「山を降る一隊」

山奥の製材所で木材の長さを計り、それを大きな声で読み上げる。私の仕事はメートル係りである。陽の下で行う健康的な仕事は晴れやかな毎日を与えてくれた。仕事を覚えて日々上手になっていく自分を知ることは、楽しかった。妻もそんな私を晴れがましく思っ…

嘉村磯多「崖の下」

駆け落ちの男女が見つけたのは、崖の下にある家だった。家の南側に絶壁があり、崖崩れが起きようものならひとたまりもない。近所には崖崩れで圧死した人も出たというが、彼らの最後の場所としては適当だろう。寝転んでは天井をにらむ日々。明日に、前途に、…

坂口安吾「白痴」

伊沢は人間社会を批判しながらも、給料をもらわなくては現実的に生きられない自分を恥じ入っていた。その代償として得た一般社会からの孤独は、側に味方、理想をいえば女を求めていた。そんな伊沢の家に、隣に住む白痴の女が逃げ出してきて、押入れの中で震…

安部公房「S・カルマ氏の犯罪―壁―」

朝おきると、胸のなかがからっぽになっていました。ぼくは自分の名前を想出せないことに気づきました。仕事場ではぼくの「名刺」が働いていて、僕の居場所はなくなりました。からっぽなまま家に帰ると、服やネクタイがクーデターを起こして・・・名前を失い…

坂口安吾「風と光と二十の私と」

人の命令に従えず、幼稚園の時からサボることを覚えた私は、二十才のとき小学校の教員をすることになった。70人クラスのうち20人は、自分の名前以外は書くことが出来ない。だが、本当に可愛い子供は悪い子供の中にいるものだ――。不良の心を知る新米教師は、…

坂口安吾「風博士」

諸君は偉大なる風博士を御存知であろうか?――警察の計算のごとく、博士は自殺を装ったのではない。否否否。偉大なる風博士は明らかに自殺したのである。風博士の遺書を読まれることで、諸君らは深い感動を催し、憎むべき蛸博士に対して劇しい怒りを覚えられ…

太宰治「桜桃」

夫はジョークをいい、妻も愛想がよい。子供たちは元気で、忙しくも楽しい食卓の風景。けれども妻が発した何気ない一言が、彼らの仮面を1枚はぎとった。悩みの深さを笑いに変え、必死に生きる父親の心。それは、子供たちより、脆くて、弱い。ヴィヨンの妻・…

石川淳「虹」

公私共に充実した社長・大給小助のもとに、突然かかってきた一本の電話。それはあらゆる嫌疑を不思議と逃れ、時代の寵児となった悪魔・朽木久太からのものだった。奴は何を考えているのか、何を起こそうとしているのか。小助は得意の弓を持った。この来訪者…

石川淳「鷹」

たばこ会社を解雇された国助が呆けていると、Kと名のる男が近づいてきた。「仕事が無いのか?あしたの朝、ここへ行ってみたまえ」。与えられたのは、運河のほとりの家の地図。宿がもらえ、仕事があたえられ、それは煙草を運搬するという単純な仕事であった…

椎名麟三「神の道化師」

「世間の恐ろしさ」を父親に叩き込まれて育った準ニは、「社会という権威ある王城」を恐れていた。ところが、16才のとき、予定外に家出してしまった彼は、不本意ながらも「社会」に暮らすことになった。身寄りのない彼が向かった先は、浮浪者が集まる無料宿…

武田泰淳「審判」

敗戦によって知った日本の姿、それは世界中から憎まれる日本である・・・。けれども月日はその恐ろしさを癒してゆく。人間なんてそんなものか。けれども、友人となった青年・二郎は違った。彼は戦時中に戦地で行った大罪を、自らの中で処理できずに苦悩し続…

武田泰淳「愛と誓い」

「誓います」との言葉に縛られて生きる男、矢走僕夫の懊悩の様子。誓いを守ることに必死な彼を殺すために、運命の矢が残酷に襲ってくる。キリスト教は迫害され、真の愛について苦悩する。誓いが必要とされる愛は、まだ未熟な愛ではないだろうか。誓いの札び…

林芙美子「風琴と魚の町」

「ここはええところじゃ、ここは何ちうてな?」「尾の道よ」。風琴の調べにあわせて商品を売る行商人一家。彼らが偶然に降りた町で得た、しあわせの日々。苦しい生活の果てにようやく得られた、安住の地・・・。ところが降り続いて止まない雨が、彼らのしあ…

織田作之助「競馬」

亡き妻に愛人があったのは気づいていたが、証拠を発見して激しく嫉妬する実直な男・寺田。その相手は、この競馬場にいる!ひしと客席を睨んでみるが、競馬の味を知ることが早く、周囲も呆れる賭け方をする。会社の金も使い込み、その様子はまるで狂ったかの…

織田作之助「髪」

丸刈りが当然とされるた戦中のあの時代を、私は長髪で通しきったのである。権威を嫌うあまりルールを破りとおし、髪を守るために退学の道をさえ選んだのだった。つまりこの長髪には、ささやかながら私の青春の想出が秘められているのだ。男にも髪の歴史とい…