牧野信一「月あかり」

 誰も彼もがあだ名で呼び合っている村のお話である。何故かこのあたりでは古来から大概の男は仇名の方が有名で、いつの間にか当人さえも自分の本名を忘れている者さえ珍しくありません。私にくる音取かく(おかく)からの手紙の宛先も間違いだらけで、牧野が槙野や槙島、巻原になっていて拍子抜け。勘違い、思い違い、そういった不満が爆発してしまいそうな日々。

牧野信一全集〈第5巻〉昭和7年10月~昭和10年3月

牧野信一全集〈第5巻〉昭和7年10月~昭和10年3月

 のんびりした村をスローモーと感じて、始終イライラしっぱなしの主人公が、次第にその村から浮き、さらに「浮き上がり」、そしてラストを迎えます。人物の関係について一読しただけでは気づきにくいトリックが存在し、それが明かされたラストでは、視点の劇的な変化が見られます。
 名前を覚えない村人は実体のない幽霊のような存在です。その中に暮らしていては、次第に自分も同化されてしまう。人間として生きるなら、そこから脱出しなければなりませんが、しかし、ローカル・ルールに従いきることも、正しい行動ではあるのです。さて、そこで浮かぶのは、村人と主人公のどちらが「普通」なのだろうか、ということ。