2004-04-01から1ヶ月間の記事一覧

矢田津世子「茶粥の記」

亡くなった良人は、雑誌に寄稿するほどの食通として有名で、味覚談義にはきりがなかった。聞き手たちは良人からまだ知らぬ味わいをいろいろ引き出しては、こっそりと空想の中で舌を楽しませる。しかし、良人は実際に食べたことはないのである。聞いた話や読…

安岡章太郎「ジングルベル」

ジングルベル、ジングルベル――デートに向う満員電車の中にまでも、街中に溢れるジングルベルは鳴り響いてくる。ジングル、ジングル……身動きが取れない中で、事故でもあったのか電車はずっと動かない……ジングル、ジングル……さっき食べたウナギが、食道までの…

井上靖「闘牛」

大スタンドの中央で行われる競技、乱れとぶ札束、どよめく観衆・・・闘牛大会のプランを聞いたとき、新聞局長・津上の頭の中ではこれらの情景が自然に浮かんだ。だが、直前まで起こるトラブルの数々は心配の種をつきさせない。そんな中、津上の背中を見なが…

島尾敏雄「島の果て」

むかし、世界中が戦争をしていた頃のお話なのですが――。隣の部落のショハーテに、軍隊が駐屯してきました。みんなおびえていましたが、聞くところによると中尉さんは軍人らしくないそうです。中尉さんは、子供たちとも仲良くしていました。ところで敵の影が…

由紀しげ子「本の話」

姉からの手紙を読んで出かけると、姉を看病していた義兄の死に目にあった。彼は姉を看病したあげく、栄養失調で亡くなった。唯一の遺品は、数百冊の本である。義兄のためにも私は、この本を高く売らなければならない。だが、私には本の価値が分からない。全…

安部公房「デンドロカカリヤ」

去年ちょっとだけ『植物』になったコモン君が受け取った1通の手紙。「あなたが必要です。それがあなたの運命です」。これをきっかけにコモン君に例の発作が表れたんだね。裏返りそうになる顔を隠しつつ、他人の目から逃れながら、人の流れにのって歩きつづけ…

平林たい子「施療室にて」

・・・どのくらい眠っただろうか、腹部の激しい痛みが私を襲ってきた。野獣のような自分のうなり声を冷酷に聞く。陣痛だ。出産後、私は監獄に入れられる。テロの失敗が原因である。午前5時、私は猿のように赤い子を産んだ。だが金持ちが優遇されるこの病院で…

松本清張「或る「小倉日記」伝」

母と暮らす耕作は生まれながら障害があり、身体に向けられる世間の好奇と同情の目を知りながら育った。だが学校ではズバ抜けた秀才で、母子はそこに小さな自信を抱いた。生涯唯一の友人・江南の紹介で、耕作は小倉時代の森鴎外の秘密を知り、鴎外の交友を求…

竹ノ内静雄「ロッダム号の船長」

ロッダム号の船長としてサン・ピエールの港に寄航した私は、オーギュスト・モーラスと挨拶を交わしていました。私の妻から彼の妻への指輪のプレゼントを渡し、会話を楽しんでいたときのことです。身体を一種の鋭い身ぶるいが走り抜けたと思うと、次の瞬間、…

壇一雄「母」

父の奮闘のおかげで私には四人の母がいる。その他に、母だかなんだか分からない人もいるのだが、どうでもよい。どの母も父にさんざん殴られていたが、私は、だいたいにおいて満ち足りていた。幸福というやつを信用もしなければ当てにもしない、そして、いつ…

牧野信一「西瓜喰う人」

村人が最も忙しいみかんの収穫時、作家の滝は、あの丘の頂きの上で半日あまり熱心に凧揚げをしていた。それも決して呑気な凧上げではない。夢中だ。余はてっきり滝が小説の構想に余念がないと思っていたのに!滝は日ごろ何をして過ごしているのか。滝は書斎…

武田泰淳「ゴーストップ」

客のクレーム応対を仕事とする村野は、今日も同僚が起こしたトラブル処理に追われていた。「金のかからないことなら、なんでもハイハイやっておけばいいんだよ」と部長も言う。そこにあの老人が姿をあらわしたのだ。老人の怒りに燃えた目つきは、村野に徹底…

島尾敏雄「格子の眼」

この家の二階の廊下には、どういうわけか格子がはまり、下の部屋を見ることが出来る。百合人は穴がどんどん大きくなって自分を吸い込んでしまう恐怖におびえ、あるときは反対に穴から自分が鬼みたいなものに覗かれているような悪寒を感じていた。なぜなら百…

尾崎翠「第七官界彷徨」

この家には勉強熱心な家族が住んでいるのである。二助の部屋からは肥やしの匂いが漏れ、三五郎は受験とは無関係なオペラを歌い、一助は彼らを「分裂心理だ」と言っている。そこで私は詩の勉強を始めたのである。人間の第七官に届くような詩を作ってやりまし…

西野辰吉「C町でのノート」

アメリカ軍に雇われた警備員(日本人)が、アメリカ兵の住居の周りにいた怪しい男(日本人)を射殺した。彼は軍のルールに従っただけだというが、基地外での発砲であったため問題が生じたのである。折衝に躍起な日米の軍及び政府関係者、涙する被害者の家族…

大岡昇平「捉まるまで」

マラリアを発病し、アメリカ軍から逃げるうち、私の心は生死の間を行き来していた。情報は錯綜するが私はとうとう動けなくなり、一人で腰をおろし、仲間とはぐれた。敵の存在など既に意識の外にある。水筒は空になり、生い茂る雑草の中で横になった・・・す…

安部公房「魔法のチョーク」

貧しい画家のアルゴン君は、今朝から何も食べていない。ふとポケットに入れた指先は、赤い棒切れにぶつかった。描いたものが全部実物となって、壁から転がり出てくる魔法のチョーク。食べ物の絵をたくさん描いて、信じられない幸福!けれども、気がついた。…

嘉村磯多「七月二十二日の夜」

師の三回忌。挨拶に伺った私は、未亡人と顔面に大ヤケドを負った遺子と会う。「いっそ死んでくれたのなら・・・」と声を絞り、苦悩を浮かべた表情を未亡人は両手で覆い隠した。治療費もない未亡人を前に、私は援助をしかかるが、私にも似た境遇の子供がおり…

椎名麟三「媒酌人」

従妹の夫である伊川民夫が突然我が家に転がり込んできた。聞けば、叔父を殴ったために村から追い出され、妻とは別居し行くあてがなく、東京に行けば仲人をしてくれたおじさんがいるし、そう思ってやって来たという。だが、私は彼とは結婚式の日に一度会った…

井上靖「黄色い鞄」

パパの金を持ってきたことがバレたのかしら。マリが連行された東京駅の二階の部屋には、黄色い鞄をもった男女4人が腰掛けていた。彫りの深い顔に皮肉な薄笑いをした湊東平、興奮気味のサラリーマン・西島五助、「出て行って!」と言ったら出て行きっぱなし…

石川淳「葦手」

銀二郎と仙吉は女好みが似通っていて、妻や愛人をかかえながら妙子と梅子の元へ通う。わたしはわたしで美代との関係が誤解され、「鉄砲政」に命を狙われる――。わたしは高邁なるものを求めているのだが、この年月の所行は酒と女、ひとりで泣いたり笑ったりと…

大岡昇平「春の夜の出来事」

女道楽は仕放題、女房子供は放ったらかし、それが俳優の常識だった時代である。美男俳優の夫は失踪し、息子・太郎はすでに一人立ちしていた。そしてある夜のこと――母・露子の家に泥棒が入った。露子は、様子を見に行った太郎の叫びを聞く。「人が死んでる」…

三島由紀夫「百万円煎餅」

おばさんとの約束にはもう少し時間がある。健造と清子はデパートに入った。ずっと質素に暮らしてきた彼ら夫婦は、あらゆることに慎重だった。しっかりと貯金し、計画を立てて将来を見据えていた。そのとき、オモチャの空飛ぶ円盤が宙を飛び、「百万円煎餅」…

掘田善衛「曇り日」

おれの心が屈していたのには2つの理由がある。1つめは、黒い男が雨の中を逃げまくり、白い兵隊と黄色い警官が、その姿を追って、なぶりものにしたのを見たからだ。もう1つは、Qと出会ってしまったせいだ。おれはあのQのことが――やはり、はっきりとその名…

原民喜「夏の花」

突然の一撃により目の前に暗闇が滑り落ち、私はうわあと叫びながらトイレを出た。原爆が投下され、私が逃げた先で見たものは、血だらけの女、転覆した列車、川を流れる少女、魂の抜けた婦人・・・顔がくちゃくちゃに腫れ上がって、爛れ、虫の息で横たわって…

坂口安吾「散る日本」

私は将棋の名人戦を観戦に出かけた。10年間名人を守ってきた木村名人が2勝3敗と追い込まれた、将棋名人戦第6局。私は将棋の駒の動かし方など、さっぱり分からない。けれども、これを見るのは念願であった。命を懸けた真剣の戦いが期待されたからだ。空気は張…

伊藤整「幽鬼の街」

十数年ぶりに訪れた小樽の町で、元不倫相手は老女となって迫りくり、親切だった先輩は死臭を漂わせながら宗教を語る。便所に入ると隣室から女声が聞こえ、川のせせらぎはいつしか人間の姿に変わる。卑怯だった青年期に係わり合い、私のために人生を崩し死ん…