坂口安吾「散る日本」

 私は将棋の名人戦を観戦に出かけた。10年間名人を守ってきた木村名人が2勝3敗と追い込まれた、将棋名人戦第6局。私は将棋の駒の動かし方など、さっぱり分からない。けれども、これを見るのは念願であった。命を懸けた真剣の戦いが期待されたからだ。空気は張り詰め殺気が生まれ、ついに勝敗が決した時、そこには死刑台に向う死刑囚のような悲痛が生じる――。

オモチャ箱・狂人遺書 (講談社文芸文庫)

オモチャ箱・狂人遺書 (講談社文芸文庫)

 私が最も好きな坂口安吾作品であり、当ブログのタイトルは本作から取っています。
 坂口安吾による将棋観戦記ですが、将棋に詳しくなくても大丈夫。日本の伝統文化である将棋という題材を通し、作者の眼は歴史と風格の否定から、新しい合理的な力の出現を望みます。他の安吾作品でも繰り返し語られていることですが、この作品は特別です。それは彼の目の前で、本物の人間によるイノチガケの勝負が行われていることです。それが安吾をして熱くさせ、その舌鋒をさらに鋭くしています。
 「精神論」といえば技術重視の現代において古臭く厭われますが、私は決して否定しません。ただし、それには前提として、完成された技術の存在があります。つまり、超一流同士、紙一重の力量差を持つ者同士の戦いにおいて、最後の最後に勝敗を分けるのは「勝負に賭ける執念」だの「気迫」だのといったものになるはずです。精神的に上回った者が勝利します。安吾はさらに反語として、一方には「負ける性格」も存在するのだと言います。その性格を持つ者は時代に取り残され、散るしかないと言うのです。

 日本人は独創的という一大事業を忘れて、もっぱら与えられたワクの中で技巧の粋をこらすことに憂身をやつしているから、それを芸だの術だの神業だのと色々秘伝を書き奥義を説いて、時の流れに取り残されてしまうのである。

 部屋いっぱい、はりさけるように満ちているのが、殺気なのだ。(略) 必死のものを電流の如く放射する、それは二人の人間のからだからでも精神気迫からでもなく、私にはそれがもうただ宿命、のがれがたい宿命、それが凝って籠っているからだ、と思われた。

 サイコロが対局のなかばすぎからほぼ動かしがたくなり、悪魔に襟首をつかまれながら、必死に居直っていた、それはもう、運命の悪魔との戦い、勝つべくもないムダな争い、凄惨見るに堪えざるものであった。私は近親の臨終を見るよりも苦しかったのだ。(一部改)



小林 坂口安吾という人がよく現れていると思って面白かった。(略)
坂口 「白痴」なんかよか、さっきの将棋の観戦記みたいなもののほうが、かえっていいんじゃないかと思ってるよ。
(対談・小林秀雄坂口安吾「伝統と反逆」)