存在の追求

長谷川四郎「鶴」

そこは円形の小部屋で、外に出ているのは機関銃ではなくて、望遠鏡だった。敵陣地見取図には至るところに番号があり、敵がいることを意味していた。しかし望遠鏡からは肉眼では見ることのできないものが、はっきりと見えたのである。朝露のきらめいているゆ…

中島敦「悟浄出世」

悟浄は病気だった。彼は一万三千の妖怪の中で、最も心が弱い生き物だった。「俺は莫迦だ」とか「俺はもう駄目だ」とか「どうして俺はこうなんだろう」とか呟いていたのである。医師の魚妖怪に「この病には自分で治すよりほかは無いのじゃ」と言われ、とうと…

野間宏「顔の中の赤い月」

戦争で生きる支えを失った男・北山年夫と、女・堀川倉子の出会い。彼らの関係の発展をジャマするのは、北山が戦場でつかんだ『自分のことは自分で解決するしかない』という戦場での哲学だった・・・。過去を清算しきれない段階での新たな出会いは、とうとう…

梅崎春生「贋の季節」

借金を踏み倒して夜逃げしてきたサーカス団は、この町でも悲惨な客入りが続いていた。そんなとき、私は「お爺さん」を舞台に出したらどうだろうか、と提案したのである。それは何の芸もなく、ただ叫んで逃げようとするだけの老猿である。ところがサーカス団…

安部公房「砂の女」

昆虫採集にきた男が一晩の宿としてあてがわれたのは、砂の崖に囲まれた家。そこには年若い女が一人住んでいた。家に降り積もる砂、食事のときには傘がいり、ふとんはますますしめっぽい。女もさっさとこんな家を出ればいいのに・・・流動し続ける1/8mmの砂の…

梅崎春生「幻化」

中年男の五郎は、精神病院から抜け出して飛行機に乗っていた。目的地は20年前、生命に対して自信があった頃に過ごした場所である。・・・だが、到着してみると、そこの風景は大きく変っていた。五郎の青春は病室で過ぎ去ったのだ。五郎は歩き出した。何のた…

大江健三郎「頭のいい「雨の木」」

暗闇の壁をもち驟雨を降らせる「雨の木」から戻ってくると、少年青年を愛するビートニクの詩人と車椅子の天才建築家の論争が、僕を待ち受けていた。それは彼らの足元あるいは背後にいる聴衆を意識したゲームあるいはパフォーマンスであったが、下降堕落の方向…

石上玄一郎「精神病学教室」

まったく自信がもてない医師・高津に、教授は手術を薦めてきた。「患者の危険も、時によってはやむを得ないものだ」。一方では、親友に死期が迫っている者がおり、高津は彼には延命をこころみる・・・。ここに現代医学から絶望視された二人の患者がある。彼ら…

高見順「誇りと冒涜」

狭間は私の古い知り合いである。一時は有望株であったが、師匠K氏の夫人と逃亡してから作家生命を絶った。一説によれば、狭間は夫人を射止めることに野心を燃やしただけだという。その事件から十数年後、狭間がひょっこり私の家に訪ねてきた。そして断りき…

井上友一郎「受胎」

漫才師の草八と偶然再会したとき、わたくしたちは上機嫌で飲み、彼は芸界の辛酸についても語ってくれた。そして彼は、せっかく板についてきた漫才師の職を投げ出してまで、浪花節をやりたいというのであった。いったいどういうことだろうか。草八は語りはじ…

丹羽文雄「厭がらせの年齢」

八十六になるうめ女は、家の中で迷って夜中でも助けを呼ぶ。悪意なく、すきを見せると盗みをはたらく。ひがみからか、客の前で「助けてくださいよぅ」とあわれな声を立てる。食事の量は減らず、そもそも食事したことを覚えていない。「ところで孫たちとして…

太宰治「新樹の言葉」

がぶがぶのんで、寝ていたら、宿の女中に起こされた。乳母の子供の幸吉さんが、わざわざ訪ねてきてくれたのである。ああ、これはいい青年だ。私にはわかるのである。ただ、大変ひさしぶりに会ったのに、ごろごろしているところを見られて、恥ずかしかった。…

埴谷雄高「意識」

不整な脈拍が止まった後、再び動き出した鼓動を聞いても、私は安堵の気持ちはかけらほどしか持てず、生の単調さを悟ってしまった感がある。鼓動が停止したときに、私は絶望と愉悦を感じるのだろう。だが、いまは駄目なのだ。私は、蹴飛ばした小石が転がる方…

井上靖「セキセイインコ」

そのとき私は庭に目をむけて、おや!と思った。二十羽ほどの雀の群れの中に、一羽だけ、セキセイインコが混じっていたのである。色も違えば形も違う。どこからどう見ても別物という感じである。けれども彼らは一緒にやってきて、一緒に西の方へ翔んで行った…

北条民雄「いのちの初夜」

不治の病を宣告されて以来、尾田は日夜死を考えていたが、考えるほどに死にきれなくなって行く自分を発見するばかりだった。いったい俺は死にたいのだろうか、生きたいのだろうか・・・。しかし、佐柄木という患者は違った。尾田よりも重い症状なのだが、明…

大江健三郎「万延元年のフットボール」

僕の生活は下降の限りをしつくして、穴ぼこの中にすでに出口はない。あるのは「恥」の感覚ばかり。弟の鷹四はそんな最低の僕と妻とを、故郷四国にいざなうが・・・待っていたのは、暴力に憧れを抱く青年たち。彼らを煽動する弟と、見る影もない自分。そして…

高見順「草のいのちを」

貞子というその女は二十一だという。女優になりたいらしい・・・が、無理だろう。こういう女性のほとんどが脱落していったものだ。社会を知った大人としては、無謀さを阻止すべきかもしれない。けれども、むげに希望の芽を摘みとるのは、どんなものだろうか…

松本清張「湖畔の人」

定年まで後六年――。同僚と決して打ちとけることがなく、親しい友人も出来なかった矢上は、遠く離れた諏訪の地への転勤を命じられた。彼はすでに諦めており、孤独を自分の居場所と定めていた。だが、松平忠輝が流された町・諏訪に対しては、ある心の動きがあ…

椎名麟三「懲役人の告発」

懲役人としての過去を持つ長作は、社会と自分の人生から外れ、肉体の支配者からも外れて生きているのだ。過去が重くのしかかっている。「前科者!」と叫ぶ弟や、直接口を利いたことがない継母らは、彼の現在を過去ごとぶっ刺したままだ。生きながら死んでい…

高見順「不正確な生」

わたしはまだまだ気は若い。先日もたち食いをしていると若い男女がやってきて、往来でダンスの稽古をはじめたのである。「おれにも教えろ」「おじさんには無理よ」「なにが無理だ」と、見よう見真似でやってみた。なんだか肩が凝ったみたいな、凝った肩がほ…

織田作之助「勝負師」

ちょうど1ヶ月前、私はある文芸雑誌に、静かな余生を送っている坂田三吉の古傷に触れるようなことを書いた。だが、私は今また彼のことを書こうとしている。それは人生で最も大事な勝負において常識外れの、前代未聞のを指し、そして敗れた坂田の中に、私は私…

椎名麟三「自由の彼方で」

情けなくていやらしい清作は、レストランで働きながら、自分が何をしたいのか、さっぱりわからないと考えていた。ああ、どうしてぼくには幸せがこないんだろう!と裏の空地で涙していたが、そもそも幸福とは何なのかということについてさえ、具体的なことは…

尾崎一雄「まぼろしの記」

私よりも優れた人間が、私よりも先に死んでいく。懸命に生きようとする人間を押しつぶす、ある理不尽な力を感じざるをえない。60を過ぎた私は、縁側でこれまでのことを思い出していた。けれども、抵抗のしようがないじゃないか。どうしようもないではないか…

大江健三郎「スパルタ教育」

若いカメラマンが発表した《狂信者たち》という組写真は、各方面から厳重な抗議を受けた。その反応の大きさのため、世間知らずだったカメラマンの内部には、功名心にとってかわって恥ずかしさの虫が巣をつくった。かれは自信を失い酒に逃げるが、《狂信者た…

石上玄一郎「日食」

人間が光合成能力を持つことが出来たならば、これは食糧問題に起因するあらゆる戦争を終結させるだろう。偉大な思想であり、未来に説かれる新たな産業革命である!――この思想故に、峯生は例の秘密結社から狙われてきた。だが、この戦いも明日で終わりだ。彼…

安部公房「燃えつきた地図」

誰もが出掛けたところへ帰ってくる。見えない目的に駆り立てられて、戻ってくるために出掛けて行く。だが、中には出掛けたまま帰ってこない人間もいて・・・。いったい彼はどこにいるのだ。探偵のぼくは失踪した彼を求めて、彼の地図をたどる。いや、ぼくが…

尾崎一雄「退職の願い」

私は人生において素人である。二十代で「めんどくせエ」を口癖にしていた頃から、それは変わっていないのではないか。私が「責任感」を持てたのは、ようやく妻をめとり、長女を得てからのことである。だがこの一年ほどの間で、私は記憶力の減退を感じだした。…

太宰治「たずねびと」

故郷へ向かう列車内はひどい暑さでした。病弱な二歳の男の子は泣き通しでしたし、五歳の女の子も結膜炎を患っています。汚いシャツの父親と、髪は乱れて顔に煤がついた母親と・・・。その列車の中でお逢いしたひとに、再びお逢いしたいのです。そして、お伝…

尾崎一雄「花ぐもり」

蜘蛛にもいろいろあって、活発に駆け廻って餌をとる奴もあれば、何喰わぬ顔で近づいていってさッと飛びつく奴もある。私は、網の真ん中にいて、虫をいつまでも待ち続けている蜘蛛だ。自分からそこへはまり込んだ私と比べることは、蜘蛛に対して失敬かもしれ…

尾崎一雄「こおろぎ」

「こおろぎは泣き虫だね。でも、圭ちゃんは泣かないね」「泣かない」。そうと決めたら動かない四つの子供の様子に、私は安堵と同時にいじらしさを感じた。二年前に死にかけて以来、私は自分が初老の男にすぎないことを知った。ひるがえって、こいつらのこの小さ…