大江健三郎

大江健三郎「個人的な体験」

アフリカ旅行の夢を抱く鳥(バード)が授かった、障害をもった赤んぼう。障害のある怪物に人生を引きずられたくはない。そうでなければ、これからの生活は?・・・すでに植物のような赤んぼう。どうせ死ぬだろう。すぐに死ぬはずだ。死んでくれ。・・・エゴ…

大江健三郎「後退青年研究所」

この世界は暗黒の深淵にむかって傾斜しているので、敏感なものたちは、いつしか暗黒へすべりおち、地獄を体験するのだ・・・。やっと二十歳になったぼくは、ゴルソン氏のオフィスでアルバイトをしていた。ゴルソン氏のオフィスに来る日本の青年たちの表情は…

大江健三郎「頭のいい「雨の木」」

暗闇の壁をもち驟雨を降らせる「雨の木」から戻ってくると、少年青年を愛するビートニクの詩人と車椅子の天才建築家の論争が、僕を待ち受けていた。それは彼らの足元あるいは背後にいる聴衆を意識したゲームあるいはパフォーマンスであったが、下降堕落の方向…

大江健三郎「河馬に噛まれる」

僕はある日、アフリカで日本人の青年が河馬に噛まれて怪我をしたという新聞の記事を読んだ。「河馬の勇士」と綽名されるその男は、かつて僕とわずかながら関わりのあった青年で、彼のアフリカ行きには僕にも責任があるようだ。彼との関係のはじまりは、彼の母…

大江健三郎「万延元年のフットボール」

僕の生活は下降の限りをしつくして、穴ぼこの中にすでに出口はない。あるのは「恥」の感覚ばかり。弟の鷹四はそんな最低の僕と妻とを、故郷四国にいざなうが・・・待っていたのは、暴力に憧れを抱く青年たち。彼らを煽動する弟と、見る影もない自分。そして…

大江健三郎「洪水はわが魂に及び」

樹木と鯨の代理人を自認する大木勇魚は、野鳥の声を聞き分ける五才の少年ジンと、閉じられた核シェルターの中に穏やかに暮していた。そんな彼らの可能性を「自由航海団」の影が開いてゆくが、そこにケヤキ群の「樹木の魂」が語りかけてくる。注意セヨ!注意…

大江健三郎「空の怪物アグイー」

著名な若い作曲家Dのもとには、ときどき空の高みから「あれ」が降りてくるのだ。カンガルーほどの大きさの赤んぼう、エゴイスティックな意思から、かつて殺してしまった赤んぼう・・・。「きみはまだ若いから、失った大事なものをいつまでも忘れられずに、そ…

大江健三郎「スパルタ教育」

若いカメラマンが発表した《狂信者たち》という組写真は、各方面から厳重な抗議を受けた。その反応の大きさのため、世間知らずだったカメラマンの内部には、功名心にとってかわって恥ずかしさの虫が巣をつくった。かれは自信を失い酒に逃げるが、《狂信者た…

大江健三郎「ブラジル風のポルトガル語」

ぼくと森林監視員とは、五十人近い村人が集団失踪した部落を訪れた。彼らの失踪に思い当たる理由はない。発狂でもなければ、税金に苦しめられたのでもない。――変わり映えのしない現状からの脱出に理由はあるのか、いや、理由なんているのだろうか?空の怪物…

大江健三郎「芽むしり 仔撃ち」

感化院から集団疎開してきた僕たちは、悪意ある壁に閉ざされたこの村に連れてこられた。家畜のような食料に、僕らの心は屈辱で満たされた。だが数日後、大人たちは逃げていった。この村にみられはじめた疫病から逃げたのだ。僕たちを置きざりにして・・・。…

大江健三郎「見るまえに跳べ」

ぼくは女に「若い人間は戦乱をくぐってこそ成長するさ」と気取っていたが、戦場行きの話をもちかけられたとき、うつむいたまま返事をすることが出来なかった。――おれは跳ばない。いつもそうだ。おれは卑劣だ。ぼくは一生跳ぶことはなく、平凡な職につくのだ…

大江健三郎「鳩」

有刺鉄線に囲われた少年院に、虐げられた心をもつ僕らは暮らしていた。ここは罪や狂気は拡散し、生気を奪い、僕らをよどみに吸いこんでしまうのだ。僕らはすでに老年の《弛緩》をみせていたが、けれども、院長の養子である「混血」には、社会の序列がぎっしり…

大江健三郎「運搬」

僕は仔牛の下半分を両腕にかかえあげ、すべり落ちようとする肉のぶよぶよとした感覚に汗ばみながら、どうにか自転車にくくりつけた。僕らの自転車は夜ふけの町を快い速さで進んだ。僕にとってこれは決して悪い仕事ではない。僕はすべてが快活な状態にあるの…

大江健三郎「下降生活者」

将来を嘱望される助教授だった僕は、自身を上昇させることにやっきになっていた。出世のために全てをささげていたといっていい。ああ、唾をはきたければはくがいい。これが一年前の自画像だ。だが去年の夏のころである。順調さからくる不安と警戒が与える限…

大江健三郎「死者の奢り」

僕と女子学生は医学部の死体処理室で死体処理のアルバイトをしていた。濃褐色の液に浸って絡みあった死体の硬く引きしまった感じ、吸収性の濃密さ、それは完全な推移を終えた《物》だ。マスクをかけていても臭気と死臭は浸入して来、時には耐えがたいほどだ…

大江健三郎「人間の羊」

バスの中。両隣の外国兵たちは酒に酔って笑いわめき、日本人乗客たちは眼をそむけていた。やはり酔っている女が、僕とからみあって転倒したとき、外国兵は女をたすけ起し、僕を強く睨んだ。肩を掴まれ突きとばされ、ガラス窓に頭をうちつけられた。外国兵は…

大江健三郎「他人の足」

この病棟で僕らはひそかに囁きあうとか、声をおし殺して笑うとかしながら、静かに暮らしていた。しかし、外部からその男が来てから、凡てが少しずつ執拗に変り始めたのだ。彼はすぐに運動をし始めた。寝椅子の少年たちに、あきらめず、愛想よく話しかけてい…

大江健三郎「飼育」

夕焼が色あせてしまった頃、村に犬と大人たちと、墜落した敵機に乗っていた《獲物》の黒い大男が帰ってきたのだ。「この村で飼う?あいつを動物みたいに飼う?」以来、子供たちは疫病に侵されて、生活は黒人兵で満たされた。大人たちは通常の仕事に戻り、黒…

大江健三郎「不意の唖」

外国兵と日本人通訳をのせたジープが谷間の村にやってきた。外国兵はたくましくて美しかったが、通訳は汚らしかった。水浴びの後、通訳の靴がなくなった。通訳は大騒ぎしたが見つからず、歯をむいて「この野郎」と叫び、「お前の責任だ」と部落長を殴った。…

大江健三郎「アトミック・エイジの守護神」

原爆孤児となった10人の少年たちを養子として育て、新聞に「アトミック・エイジの守護神」と書かれた中年男。だが、彼は少年たちに巨額の保険金をかけていたことが判明し、その記事を書いた記者はとても不愉快そうだった。実際、白血病で1人死に、2人死…