大江健三郎「空の怪物アグイー」

 著名な若い作曲家Dのもとには、ときどき空の高みから「あれ」が降りてくるのだ。カンガルーほどの大きさの赤んぼう、エゴイスティックな意思から、かつて殺してしまった赤んぼう・・・。「きみはまだ若いから、失った大事なものをいつまでも忘れられずに、それの欠落感とともに生きているということはないだろう?」

空の怪物アグイー (新潮文庫)

空の怪物アグイー (新潮文庫)

 切なさに満ちた、大人向けのメルヘン。リアリストは一般に「現実逃避」という言葉を悪い意味で用いますが、逃避することにより喪失したものを守るためならば、それは世界として尊重すべきものでしょう。守る意識が強いあまりに、自らを痛めつけ傷つけるのでなければ・・・。
 大事なものを失った経験がある人は、この話に強い共感を得ることだろうと思います。映画「八日目」のような読後感。「個人的な体験」以後の中期を代表する傑作。

 「きみはまだ若いからこの現実世界を見喪って、それをいつまでも忘れることができず、それの欠落の感情とともに生きているという、そういうものをなくしたことはないだろう?まだ、きみにとって空の、百メートルほどの高みは、単なる空にすぎないだろう?」