2004-07-01から1ヶ月間の記事一覧
秋子は娼婦だった。その体と会話するとき、彼女のさまざまな言葉が私の体へと伝わってきた。この平衡は長くは続かず、いつしか私は彼女の不在をさびしがるようになった。私の下で秋子が既に疲れていることがあり、そのときの気持は、そのまま嫉妬につながっ…
桜の下には風もないのにゴウゴウと鳴っている気がしました。そこを歩くと魂が散り、いのちが衰えて行くようです。旅人がみんな狂ってしまう桜の森がある山には、むごたらしい山賊が住んでいました。美しい女房をさらってきましたが、男はなぜか不安でした。…
私も含まれていたが、近くの席にいた七人は授業中にアンパンを食べた。それは規則で正しくないこととみなされ、その罰は死刑である。くつがえすことのできない校則第十九条に記された規則は、空気ほどの抵抗もなくみんなに受け入れられた。私たちは裁縫室に…
Aなにがしが自分の家に帰ってきたとき、見知らぬ男が死んでいるのを発見した。麻痺状態から立ち直っても助けを呼びに行くことはできなかった。・・・これは彼を陥れようとする狡猾な犯人の罠かもしれない。けれども目の前にある死体もいつまでも大人しくして…
おれって馬鹿なのかもしれないなあ。なんでこんなことやってるんだろうって、ときどき考えちゃうんだよ。おれも前はチャンピオンにある気でいたけど・・・でもチャンピオンだって、落ちるのは早いぞ。チャンピオンの向う側が、いちばん急な崖なんだから・・…
ノックに応じてドアをあけると、数え切れないほどの大家族がならんでいました。先頭の紳士が「お邪魔しましょう」と言い、全員が部屋に上がり込んできました。ぼくは何も言っていないのに、部屋は占領されてしまいました。ぼくが抗議すると、紳士は急に態度を…
感化院から集団疎開してきた僕たちは、悪意ある壁に閉ざされたこの村に連れてこられた。家畜のような食料に、僕らの心は屈辱で満たされた。だが数日後、大人たちは逃げていった。この村にみられはじめた疫病から逃げたのだ。僕たちを置きざりにして・・・。…
寄りそってくる妻はもういない。信頼のまなざしはもう認められない。電車を降りて家に帰ると妻はいなかった。女を刺し殺すのだと言っていた顔が、鶏の首を黙ってしめていた孤独な格好が目に浮かぶ。私は二度と行くまいと誓ったはずの、女の家にふたたび向う…
天才画家・姉川の不調に気づいていたのは、画商・奥野の確かな眼だけだった。姉川は元来寡作なため一般に気づかれてはいないが、二年前をピークに彼の才能は行きづまりを見せていた・・・。そのとき、奥野の店に入ってきた若い男。売り込みである。下手だ。…
善良だが向上心や野心のない夫に失望した妻・ぬいは、俳誌に句を投じるようになった。以来家事が疎かになったが、夫はとがめることが出来ず、台所におり子育てもした。ぬいは生来勝気な性格であったが、それは自分より才能豊かな(と彼女が感じた)人物に対…
三十年近い昔のこと、地方の中学校に奉職していた己は、学界の定説を完全に覆す発見をした。しかし、これが学会に黙殺され、名誉教授から「田舎の教師風情が知ったかぶりをしおって」と否定されようなどとは思わなかった。以来、己は周囲が与える屈辱、不信…
純情で嫉妬深い楠田参謀長と、町医者出身でかつて女にでたらめだった末森高級軍医は、この朝鮮の平和な町で塚西夫人の心を得ようと争っていた。夫人は二人に、平等に接しているようだった。化粧の濃淡も笑い声の回数も、全く同じように見えた。二人の競争は…
木村卓治を考古学の鬼才とよび、彼が生きていれば現在の考古学はもっと前進していたとの声は多い。現在からみると、彼の主張は正しかったことが知られている。だが、彼の熱心さと斬新な着眼点がゆえに、その主張は保守的学者から一斉に非難され、彼は中央に…
南条健一、東郷康夫、北見道也、西田徳治。彼らは見事なまでに模範的な学生だった。強いて気になる点があるとすれば、時折口にする「退屈だなあ」という言葉くらいのものだった。彼らは、ある時それぞれの技術を持ち寄って鉄砲を作り上げ、「メフィスト」と…
「釣堀に行こうよ」とさいしょに言ったのは男の子だった。父親ははじめ乗り気でなかったが、小学一年生の男の子と、小学五年生の女の子が熱心に誘うので、重い腰をあげて出かけることにした。細君と、三つになったばかりの下の男の子は留守番だ。徒歩で十分…
戦時下の病院内は、どうせ何をやったって誰もが暗い海に引きずりこまれて死ぬという諦めに似た空気に包まれていた。そこでは患者の命よりも、医学部部長選挙が優先され、同僚は「どうせ空襲で死ぬんだから、病院内で殺された方が医学への発展のためにいい」…
修道士であるユダヤ系ドイツ人のネズミ―本名は覚えていない―は、戦争の激化につれておどおどさを増して生活していた。学生は皆、彼のことを軽蔑し、残酷に嘲笑していた。このネズミと男とが近づいたのは読書会で、英雄的な殉教者の話がなされたときである。…
ぼくは女に「若い人間は戦乱をくぐってこそ成長するさ」と気取っていたが、戦場行きの話をもちかけられたとき、うつむいたまま返事をすることが出来なかった。――おれは跳ばない。いつもそうだ。おれは卑劣だ。ぼくは一生跳ぶことはなく、平凡な職につくのだ…
私はこのたび感ずるところあってニコ狆先生の門弟となった。ニコ狆先生またの名を狆クシャといい、甲賀流忍術の達人である。先生の顔は犬の狆がクシャミをするときによく似ている。先生の妙齢のご令嬢、美しい、美し過ぎる千代子さんとは、トンビと鷹の親子…
有刺鉄線に囲われた少年院に、虐げられた心をもつ僕らは暮らしていた。ここは罪や狂気は拡散し、生気を奪い、僕らをよどみに吸いこんでしまうのだ。僕らはすでに老年の《弛緩》をみせていたが、けれども、院長の養子である「混血」には、社会の序列がぎっしり…
僕は仔牛の下半分を両腕にかかえあげ、すべり落ちようとする肉のぶよぶよとした感覚に汗ばみながら、どうにか自転車にくくりつけた。僕らの自転車は夜ふけの町を快い速さで進んだ。僕にとってこれは決して悪い仕事ではない。僕はすべてが快活な状態にあるの…
将来を嘱望される助教授だった僕は、自身を上昇させることにやっきになっていた。出世のために全てをささげていたといっていい。ああ、唾をはきたければはくがいい。これが一年前の自画像だ。だが去年の夏のころである。順調さからくる不安と警戒が与える限…