文明の交錯

木々高太郎「人生の阿呆」

両親よりも祖母に育てられた良吉は、盲目の愛をうけて育った。或る時は祖母が憎らしくなったこともあったが、それは良吉にとっては、自分を憎むことだった。良吉は父の良三から、小間使いの娘との間に覚えのない嫌疑をかけられて、欧羅巴へ身を隠すことにな…

野坂昭如「アメリカひじき」

ハワイで妻が知り合ったヒギンズ夫妻、このたび日本へ遊びにくるという。俺達、恨む筋合いはないけれど、アメリカの過剰物資を投げられて、それを拾う情けなさ。ギブミーシガレット、チョコレートサンキュウと兵士にねだった経験なければ、恥かしい気持ちは…

武田泰淳「森と湖のまつり」

映写がつづいているあいだも、入口からは絶えずアイヌたちが降りてきた。そのとき、ツルコ、ツルコというささやきが、女たちの口から口へ伝わった。鶴子は雪子の傍に腰をかがめると、「つまんないな」とつぶやいた。「あいかわらずだな、君は」と池博士は言…

色川武大「サバ折り文ちゃん」

顔と胴体が異常に大きく、足が細い。身の丈は二メートル弱。出羽ヶ獄文治郎は、全体の感じが陰気で痴呆的な巨漢力士だった。大正から昭和にかけて文ちゃんの愛称で親しまれ、負けても勝っても日本中の人気者だった。だが、その人気はマイナスのものであり、…

田中英光「桑名古庵」

桑名古庵は、土佐における最初のヤソ教信者とされているが、この情報はだいぶ怪しい。むしろ彼の生涯の方に封建社会の犠牲者としてのはっきりした栄誉があると思う。白髪が増えてゆく母、一人立ちして医者になる古庵、それぞれに生きる兄弟たち、そしてキリ…

高見順「尻の穴」

吉行淳之介君と行ったおかまバーで聞いた出来事に、僕はふと友人の「更生させようとして、かえって自殺に追いやった」という言葉を思い出した。そうだ、大観園のことを書いてみよう。人がごった返して異臭漂い、階段下には真裸の死体がいる。毎度のことだか…

高見順「ノーカナのこと」

陥落直後のラングーンで、印度人コック長ポトラーズは特別料理を作る約束を果たさなかった。材料費をくすねておいて、発覚しても謝らなかった。私はそんなポトラーズから印度人を考え、ひいては人間に絶望しそうな自分が恐かった。そんなときでも給仕ノーカ…

坂口安吾「イノチガケ」

信長に保護され、秀吉に蹴落とされ、家康に止めを刺され、切支丹は完全に国禁された。海外からは情熱を抱いて浸入する宣教師が絶えなかったが、遊ぶ子供の情熱に似た幕府の単調さは、彼らの迫害を行い続けた。火あぶり、氷責、斬首、穴つるし、島原の乱、鎖…

石川淳「二人権兵衛」

狐を盗んだうんぬんのつべこべ問答のすえ、とぼけ顔のゴンベは船橋の権兵衛と証書をかわした。「首一つ。払えなければ米一俵」。ゴンベは押問答というやつは不得手で、脇差をちらちらさせる権兵衛に負けることはきまっている。それにしても、これはゴンベの…

武田泰淳「異形の者」

私はうまれつき自立独立の精神が欠けて居り、かつその他にすべきこともなかったため、寺に生れた者にとって一番安易の路を選んだのである。だが女を熱望する以上、僧侶になりきることはできぬと思った。彼女らがそり落とした頭を見るときの、瞳のおびえは当…

壇一雄「降ってきたドン・キホーテ」

一月元旦。変り映えのしない年賀状の中に一通、馬鹿デカイ封筒が混じっていた。これこそは誰あろう、ラ・マンチャの騎士ドン・キホーテ氏からのものだった!どこかの大統領が会見を申し込んできたのとはわけが違う。偉大なる騎士をどのように迎えるか、浴び…

堀田善衛「ルイス・カトウ・カトウ君」

ルイス・カトウ・カトウ君は、キューバで私についてくれた現地ガイドである。このカトウ君、日本語の読み書きはほとんど出来ず、町の様子にも通じていない。けれども「アチーネ、アチーモンネ」と繰り返しながら、「ドコサイクカネ」と行こうとしている。そ…

開高健「玉、砕ける」

張立人は私が香港へ来るたびに会うようになった、初老の友人である。彼との話題は東京では笑い話になりそうだが、ここでは痛切な主題なのである。つまり、どちらか一つを選べ、選ばなければ殺す、沈黙も殺すといわれ、どちらも選びたくなかったときに、どう…

牧野信一「天狗洞食客記」

「エヘン!」と咳払いを発すると、右手の先で顎を撫で、それから左腕を隣りの人を抱えるように横に伸して、薄ぼんやりとギョロリ。奇妙な癖をもち、それが頻発するようになった私は、周りの人々にことごとく気味悪がられた。そこで私はR氏の世話で、天狗洞…

石上玄一郎「鵲」

相変わらず雑踏している上海の街。そこに一人の老人が坐っていたが、彼は腕組みをしたまま眠っていた。道に記した文章で同情をひく乞食の一人であるようだ。何気なく行き過ぎようとしたが、まれに見る書体の美しさと卓抜な行文が、行きどころのない私の足を…

石川淳「小公子」

酔いどれどもが去ったあとに残った客は、若い男ただひとり。主人が「あなたはむかしお見かけたような」と声をかけると、客は「ぼくの生活は明日だけだ。きのうや、きょうのことは、もうおぼえが無い」と答えた。おやじが「また明日きてくれ。きょうの勘定は…

石川淳「アルプスの少女」

クララはハイジのはげましのおかげで、立ち上がることが出来るようになった。歩くことが出来るようになったクララに、牧場の生活に気に入らないことがある法はない。けれどもクララの目と足は、牧場とは反対側の村の方に、村よりもずっと向うのほうにむいて…

遠藤周作「札の辻」

修道士であるユダヤ系ドイツ人のネズミ―本名は覚えていない―は、戦争の激化につれておどおどさを増して生活していた。学生は皆、彼のことを軽蔑し、残酷に嘲笑していた。このネズミと男とが近づいたのは読書会で、英雄的な殉教者の話がなされたときである。…

大江健三郎「下降生活者」

将来を嘱望される助教授だった僕は、自身を上昇させることにやっきになっていた。出世のために全てをささげていたといっていい。ああ、唾をはきたければはくがいい。これが一年前の自画像だ。だが去年の夏のころである。順調さからくる不安と警戒が与える限…

木山捷平「耳学問」

私は耳学問であるがいくつかのロシヤ語を知っている。オイ。コラ。馬鹿野郎。日本人。陰部。交接。これらの他に「ヤー、ニエ、オーチエン、ズダローフ」=「私は病気である」も棒暗記した。それでも八月十二日、私は現地招集というやつを受け、バクダンをも…

中島敦「巡査の居る風景」

敷石には凍った猫の死骸が牡蠣のようにへばりついた。その上を赤い甘栗屋の広告が風に千切れて狂いながら走った――。1923年の冬、すべてが汚いまま凍りついていた。趙教英巡査は寒そうに鼻をすすっては首を縮め、街を歩いていた。彼は支配者である日本という…

大江健三郎「飼育」

夕焼が色あせてしまった頃、村に犬と大人たちと、墜落した敵機に乗っていた《獲物》の黒い大男が帰ってきたのだ。「この村で飼う?あいつを動物みたいに飼う?」以来、子供たちは疫病に侵されて、生活は黒人兵で満たされた。大人たちは通常の仕事に戻り、黒…

辻亮一「異邦人」

彼――丘上博は、木枯国共産党の軍付属病院に勤務することになった。博は前年に妻を亡くしてから、生きていくことにさえ執着しなくなっていた。そこで博は誰もが嫌がる重労働を進んでこなしていった。さまざまな問題も、博が被ることで解決する。仲間の気分が…

安部公房「魔法のチョーク」

貧しい画家のアルゴン君は、今朝から何も食べていない。ふとポケットに入れた指先は、赤い棒切れにぶつかった。描いたものが全部実物となって、壁から転がり出てくる魔法のチョーク。食べ物の絵をたくさん描いて、信じられない幸福!けれども、気がついた。…