野坂昭如「アメリカひじき」

 ハワイで妻が知り合ったヒギンズ夫妻、このたび日本へ遊びにくるという。俺達、恨む筋合いはないけれど、アメリカの過剰物資を投げられて、それを拾う情けなさ。ギブミーシガレット、チョコレートサンキュウと兵士にねだった経験なければ、恥かしい気持ちはわかんのか。とりもたなければサービスに欠ける気がするが、日本人かて俺と同じ年頃やないと、俺の中のアメリカはわかるわけない。

アメリカひじき・火垂るの墓 (新潮文庫)

アメリカひじき・火垂るの墓 (新潮文庫)

 「ここは日本だ、英語は使わない」と決めていたはずなのに、初来日したアメリカ人に対して、ついつい英語で接待してしまう主人公。銀座を案内して、女をあてがい、すべては「日本はすごい」と言わせたいがため。日本がアメリカのはるか下に位置していた時代を知る主人公にとって、アメリカをしのごうとする現在の姿は奇跡なので、それを直接アメリカ人に認めてもらいたい。・・・しかし、そんな苦労を知ってか知らずか、このアメリカ人は日本に全く関心を示しません。認めるも何もない、日本はいつまでもアメリカの下であり、眼中にないとでもいった風に。お世辞を知らないアメリカ人に対する腹立たしさが、いつしか主人公の中にふつふつと・・・。
 日本が世界(すなわちアメリカ)を目標としている構図は現代も変わりません。スポーツでも文化でも海外で活躍することで評価されます(逆輸入で人気爆発なんてことすらある)。しかし、ある世代以上の人にとってアメリカは憧れだけでなく、敵であり、恩人であり、嫉妬の対象となるのでしょう。現代の若者にとって「アメリカは敵である」という意識は消滅していますが、嫉妬の気持ちはまだ残っているように思います。たとえば、英語がペラペラな人に対する気持ちの中に。
 ただ、「体格の差が国力の差である」という本文中の言葉からすると、日本人は大きくなってくるうちに「大きければいい」わけではないことにも気づき始めています。アメリカ化を求めていた20世紀末を経て、その独断性などアメリカの悪い部分を見聞きするうちに、アメリカ化する自らへの反発と独立心とでも言ったものが、ここ数年の日本には生まれていると感じます。そんな日本が進む将来の道は、外国との比較により自国を評価する姿勢を捨て去り、日本自体をその強さも弱さも認めてそのままの形で発信することにあるように思います。しかし、遠慮という日本の文化と言葉の壁が、いつまでも邪魔する気が・・・。