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石川淳「飛梅」

愛情のかぎりに光子を育てた大八だったが、帰国してみると光子は不良になっていた。その間育てていた十吉の返事は歯切れが悪い。光子に逢うこと叶わず、ついと大八は立ちあがり、「おれは必ず光子に逢ってみせるぞ」と息まいてようやく外に出て行った。する…

島尾敏雄「勾配のあるラビリンス」

私はたそがれの頃、大都会の真中に突き出ていて、街の屋根を見下す公園に現れた。ところがそのときに限って、他に人が誰も現われなかった。――私は空虚を前に発作に襲われ、走り出していた。人の影を求める。それは世間では普通の顔をしているが、実際は追い…

野間宏「顔の中の赤い月」

戦争で生きる支えを失った男・北山年夫と、女・堀川倉子の出会い。彼らの関係の発展をジャマするのは、北山が戦場でつかんだ『自分のことは自分で解決するしかない』という戦場での哲学だった・・・。過去を清算しきれない段階での新たな出会いは、とうとう…

石川淳「喜寿童女」

江戸下谷敷数奇屋町にいた名妓・花は、幼い頃から精気さかんで、生涯に男を知ること千人を越えた。それが天保四年癸巳三月一日、花女七十七歳の喜寿の賀宴のさなか、とつじょ行方知れずになった。そして花女は胡兆新伝来の甘菊の秘法により、老女変じて童女…

梅崎春生「幻化」

中年男の五郎は、精神病院から抜け出して飛行機に乗っていた。目的地は20年前、生命に対して自信があった頃に過ごした場所である。・・・だが、到着してみると、そこの風景は大きく変っていた。五郎の青春は病室で過ぎ去ったのだ。五郎は歩き出した。何のた…

深沢七郎「笛吹川」

「死んで、あんな所に転がせて置くなんて」。おけいは表に出ると、片目で土手の方を睨んで歩き出した。勝やんはまだ死んでいない気がしたのである。右の手で左の腕をさすりながら、側へ行って顔を覗き込んだ。着物はズタズタに斬られていて、身体中が血だら…

石川淳「至福千年」

開国と攘夷に揺れ動く幕末の江戸に、人の心をかき乱すものどもが走る。聖教は己の心にありとして、人形の少年を捧げ、白狐を操る老師加茂内規。下下あつめて天地をかえすのは、千年の地上楽園のためにこそ。我が教につくか死か!そこに気合するどく、まて、…

野坂昭如「アメリカひじき」

ハワイで妻が知り合ったヒギンズ夫妻、このたび日本へ遊びにくるという。俺達、恨む筋合いはないけれど、アメリカの過剰物資を投げられて、それを拾う情けなさ。ギブミーシガレット、チョコレートサンキュウと兵士にねだった経験なければ、恥かしい気持ちは…

武田泰淳「森と湖のまつり」

映写がつづいているあいだも、入口からは絶えずアイヌたちが降りてきた。そのとき、ツルコ、ツルコというささやきが、女たちの口から口へ伝わった。鶴子は雪子の傍に腰をかがめると、「つまんないな」とつぶやいた。「あいかわらずだな、君は」と池博士は言…

島尾敏雄「出発は遂に訪れず」

固い眠りから覚めた私は、変りのない一日がまだ許されていることを知る。死の淵に立っていても睡眠と食慾を猶予できないことが、私を虚無と倦怠におしやり、暗い怒りにみまう。特攻隊の指揮官として出来ることはすでにないが、さし迫った状況はどこに行った…

長谷川四郎「勲章」

この大隊は旧軍隊の秩序をそのまま保持しており、佐藤少佐はシベリヤ天皇として特権的な生活を送っていた。しかし、本人はさほど意識していなかったようだが、彼も所詮捕虜であった。或る日着任してきたロシヤ人将校は、少佐と兵隊たちに権力がいずこにある…

横光利一「春は馬車に乗って」

「俺はこの庭をぐるぐる廻っているだけだ。お前の寝ている寝台から綱をつけられていて、その綱の円周の中を廻るだけだ」「あなたは早く他の女の方と遊びたいのよ。あたしは死んだ方がいいの」。これは「檻の中の理論」である。檻に繋がれた彼の理論を、彼女…

丹羽文雄「厭がらせの年齢」

八十六になるうめ女は、家の中で迷って夜中でも助けを呼ぶ。悪意なく、すきを見せると盗みをはたらく。ひがみからか、客の前で「助けてくださいよぅ」とあわれな声を立てる。食事の量は減らず、そもそも食事したことを覚えていない。「ところで孫たちとして…

太宰治「新樹の言葉」

がぶがぶのんで、寝ていたら、宿の女中に起こされた。乳母の子供の幸吉さんが、わざわざ訪ねてきてくれたのである。ああ、これはいい青年だ。私にはわかるのである。ただ、大変ひさしぶりに会ったのに、ごろごろしているところを見られて、恥ずかしかった。…

深沢七郎「楢山節考」

おりんはこの冬に楢山に行くことを決めているのである。その山はとても遠くにあるのである。村は食料が乏しいために、家族が多いと冬を越せないのである。でもまだ秋である。この年になっても元気なおりんは、自分の年寄りらしくない姿が恥ずかしかったので…

北条民雄「いのちの初夜」

不治の病を宣告されて以来、尾田は日夜死を考えていたが、考えるほどに死にきれなくなって行く自分を発見するばかりだった。いったい俺は死にたいのだろうか、生きたいのだろうか・・・。しかし、佐柄木という患者は違った。尾田よりも重い症状なのだが、明…

萩原朔太郎「猫町」

私は、道に迷う。意図的に、道に迷う。不安から抜け出したところに、快楽があるために他ならない。その日も私は、道に迷っていた。ところがそのとき現れたものは、全く見ず知らずの町であった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう?どうしてこんな…

高見順「草のいのちを」

貞子というその女は二十一だという。女優になりたいらしい・・・が、無理だろう。こういう女性のほとんどが脱落していったものだ。社会を知った大人としては、無謀さを阻止すべきかもしれない。けれども、むげに希望の芽を摘みとるのは、どんなものだろうか…

長谷川四郎「張徳義」

橋の警備隊にとらえられた張徳義。彼は半地下に入れられ、日本兵の奴隷として暮らすことになった。馬とともに鞭打たれる激しい労働、残飯を与えられて暮らす日々。古い上官が去り、新しい上官が来たが、彼に対する扱いに変化はない。彼の存在は忘れられてい…

太宰治「ロマネスク」

むかし津軽の庄屋に、太郎という男の子が生れた。これは生れるとすぐに大きいあくびをし、動くこといっさいを面倒がるのである。彼はいつも退屈そうに過ごしていた。そして、はやくも三歳のときにちょっとした事件を起し、そのお蔭で太郎の名前が村のあいだ…

大江健三郎「洪水はわが魂に及び」

樹木と鯨の代理人を自認する大木勇魚は、野鳥の声を聞き分ける五才の少年ジンと、閉じられた核シェルターの中に穏やかに暮していた。そんな彼らの可能性を「自由航海団」の影が開いてゆくが、そこにケヤキ群の「樹木の魂」が語りかけてくる。注意セヨ!注意…

坂口安吾「信長」

天下に名だたる大タワケ・織田信長。彼の兵法を配下の武将たちは全く理解できないでいた。彼らは考えた。今川義元が攻めてくるまでの時間の問題である。だが、美濃のマムシ殿だけは違っていた。信長が大バカと言ったのはどこのどいつだ?・・・放埓の果てに…

福永武彦「風花」

彼は療養所の孤独のなかに生きており、これから行く道も定かではない。詩をつくろうとした彼の思考は、何か別の力によって過去へと、周囲から愛されていた過去へと戻ろうとする。そのとき、彼の顔に何やら冷たいものが降りかかった。(ああ、風花か――)。何…

福永武彦「未来都市」

死に憑かれて放浪を繰り返していたその時、僕はヨーロッパのどこかの都会で「BAR SUICIDE」という酒場を見つけた。「死にたければ、特別のカクテルを出しますよ」。バアテンの言葉に誘われるまま、僕はグラスを口へ運ぶ。隣にいた男が、バアテンが叫び、そし…

埴谷雄高「闇のなかの黒い馬」

真夜中過ぎ、遠い虚空から一匹の黒馬が駆けおり、鉄格子のはまった高窓から音もなく乗りいれてくる。黒馬の柔和な目に誘われて尾の先を握りしめると、ふわりと浮いた私の体は暗黒の虚空へ向って進みはじめた。もしこの手を放さなければ、《ヴィーナスの帯》…

大江健三郎「芽むしり 仔撃ち」

感化院から集団疎開してきた僕たちは、悪意ある壁に閉ざされたこの村に連れてこられた。家畜のような食料に、僕らの心は屈辱で満たされた。だが数日後、大人たちは逃げていった。この村にみられはじめた疫病から逃げたのだ。僕たちを置きざりにして・・・。…

松本清張「石の骨」

三十年近い昔のこと、地方の中学校に奉職していた己は、学界の定説を完全に覆す発見をした。しかし、これが学会に黙殺され、名誉教授から「田舎の教師風情が知ったかぶりをしおって」と否定されようなどとは思わなかった。以来、己は周囲が与える屈辱、不信…

大江健三郎「下降生活者」

将来を嘱望される助教授だった僕は、自身を上昇させることにやっきになっていた。出世のために全てをささげていたといっていい。ああ、唾をはきたければはくがいい。これが一年前の自画像だ。だが去年の夏のころである。順調さからくる不安と警戒が与える限…

堺誠一郎 「曠野の記録」

見渡すかぎり陰鬱な空と、はてしなくつづいている大地――。輸送列車から降ろされた場所は、銃声一つ聞えぬ雪野原であった。お前らの当面の敵は寒さだって、軍医殿がいっていた。しかし退屈でしょうがねえ。訓練だけの日々は士気を低下させていった。せめてソ…

壇一雄「終りの火」

妻・リツ子は昏々と眠っている。リツ子のお腹は生気も弾力も失い、死火山のようにげっそりと陥ちている。舌と唇の亀裂はひどく、微塵のひびに犯されている。知覚も何もなくなっているにちがいない。足は足とは思えず、巨大なキノコの類に思われた。父は息子…