梅崎春生

梅崎春生「贋の季節」

借金を踏み倒して夜逃げしてきたサーカス団は、この町でも悲惨な客入りが続いていた。そんなとき、私は「お爺さん」を舞台に出したらどうだろうか、と提案したのである。それは何の芸もなく、ただ叫んで逃げようとするだけの老猿である。ところがサーカス団…

梅崎春生「記憶」

その夜彼はかなり酔っていた。家まであと三十メートル、このタクシーの運転手は暗いからといって停車した。「今までのタクシーはぜんぶ通ったよ」「おれはイヤだね」。前を向いたまま、運転手はいった。思えば、まだ顔を見ていない。「歩いたらどうですか」…

梅崎春生「幻化」

中年男の五郎は、精神病院から抜け出して飛行機に乗っていた。目的地は20年前、生命に対して自信があった頃に過ごした場所である。・・・だが、到着してみると、そこの風景は大きく変っていた。五郎の青春は病室で過ぎ去ったのだ。五郎は歩き出した。何のた…

梅崎春生「侵入者」

玄関扉をあけたとたん、見知らぬ男たちがずかずかと上がってきた。1人が言った、「大丈夫ですよ、この家には写真をとられる義務があります」。・・・義務?この家はむろん彼のものだ。けれども、彼は所有を示す方法を知らない。男たちは三脚を準備しはじめ…

梅崎春生「ボロ家の春秋」

僕が借りている家に突然、野呂旅人という男がやってきました。そんな話は聞いちゃいませんでしたが、どうやら二人とも貸主に騙されたらしい。僕らは被害者同士で気持ちを通じ合わせたのですが、この友好関係は長続きしませんでした。この野呂は嫌がらせが好…

梅崎春生「崖」

私はなるべく目立たない存在に自分をおくことで、摩擦から逃れようと努力していた。なので(なぜ加納は謝らないのか?)と加納への私刑を見ていて、私は思った。機を見て謝れば、それで済む場合があるのだ。彼を支えているのは自尊心と英雄ぶりへの自己陶酔…

梅崎春生「山名の場合」

山名申吉は、いつも同僚の五味司郎太とセットで扱われていました。いずれも三十一歳、背丈低く、独身、国語教師、職員室での机も隣同士で、月給の額までぴたりと一致していたのです。山名はいつしか五味をぼんやりと憎むようになりました。同類意識、競争意…

梅崎春生「麺麭の話」

異常インフレが続き食べ物が不足した時代、真面目な役人である彼は、妻と子と犬と自分を飢えさせるために働いているようなものであった。汁やカスしかない食卓のたびに、血色のいい多田の声が思い返されてくる・・・。1週間前、多田が打診してきたのは、役所…

梅崎春生「桜島」

対岸は相変わらず同じところから出火しており、もはや消火する気力を失ったようである。確実に敗北と死が迫っている。なぜだ。なぜ、私はここで死ななければならないんだ。日本は私に何をしてくれたのだ。この桜島は私の青春にどういう意味を持つんだ。私は…