梅崎春生「記憶」

 その夜彼はかなり酔っていた。家まであと三十メートル、このタクシーの運転手は暗いからといって停車した。「今までのタクシーはぜんぶ通ったよ」「おれはイヤだね」。前を向いたまま、運転手はいった。思えば、まだ顔を見ていない。「歩いたらどうですか」「歩け?君は、歩けと命令するのか?」言いかけた時、扉がひとりでにギイとあいた。『落着け。落着くんだ。』・・・クレームの電話をした二日後、常務と運転手が謝罪に訪れた。しかし、運転手は本当にこの男だったのだろうか。もっと若い横柄な感じだったのではないか?


 横柄な運転手には読者もイライラさせられますが、肝心の主人公が酔っていたため、だんだんわけがわからなくなってきます。いろいろな記憶がごちゃまぜになり、正しいような、正しくないような・・・。思い出さなければならないのだが、ちょっと、どうにも・・・。
 自らの記憶に対する自信というものは、他人の証言によってあっさりと失ってしまいます。多数の人に勘違いを指摘されたら、(えー、おかしいなあ)と思いつつも、間違いを認めてしまうのではないでしょうか(中には頑固な人もいますが)。はじめはエッセイ風の作品かな?と思っていましたが、最後の最後にニヤリ!な展開が。