日常の衝撃

武田泰淳「鶴のドン・キホーテ」

あまり長くつづく沈黙に気味わるくなったそのとき、鶴田が思いつめた様子で片手を懐に差し入れて、古新聞紙にくるんだつまらない包みをサメ子の方に差し出しました。そのときの彼の眼は異様な光を発していたのです。矛盾した怒りと悲しみのほかに、求愛のせ…

武田泰淳「歯車」

速水兄弟こそは本当の天才でした。兄の勘太郎さんには経営の才が、弟の勉次さんには職人の腕があった。だが私の拝見したところ、真の仕事の神様、発明の天才は弟さんの方だった。御ふたりの智能が歯車のように噛みあって、会社は大きくなったと世間一般は考…

武田泰淳「甘い商売」

吉川冬次がサイパン島についたとき、N拓殖とM殖産の駐在員の出迎えはなく、集まってきたのは、痩せ衰えた日本人たちであった。夜になると宿舎の窓をこえて、奇妙な歌声が流れてくる。それは陰気で暗澹たるメロディだった。会社に対する怨みつらみ、やけく…

高見順「インテリゲンチャ」

東大卒の満岡は、インテリに見合った仕事として、新聞の社説を書いていた。だが、最近、悩みを持ち始めたようである。結局、社説なんてトップの意向に従った、枠内の仕事なのではないか、だとするならば、タイピストと大差ないのではないか・・・。「観念」…

椎名麟三「罪なき罪」

飼い犬に向かって、いつものように「おまえだけだよ、私の言うことを分かってくれるのは」と嘆いていた志津は、背後から子供に声をかけられた。「おばさん、死にたいの?」志津は、つまらない気がして云った。「そうよ、・・・おばさん、死ねたらと思ってい…

梅崎春生「記憶」

その夜彼はかなり酔っていた。家まであと三十メートル、このタクシーの運転手は暗いからといって停車した。「今までのタクシーはぜんぶ通ったよ」「おれはイヤだね」。前を向いたまま、運転手はいった。思えば、まだ顔を見ていない。「歩いたらどうですか」…

大江健三郎「個人的な体験」

アフリカ旅行の夢を抱く鳥(バード)が授かった、障害をもった赤んぼう。障害のある怪物に人生を引きずられたくはない。そうでなければ、これからの生活は?・・・すでに植物のような赤んぼう。どうせ死ぬだろう。すぐに死ぬはずだ。死んでくれ。・・・エゴ…

大江健三郎「後退青年研究所」

この世界は暗黒の深淵にむかって傾斜しているので、敏感なものたちは、いつしか暗黒へすべりおち、地獄を体験するのだ・・・。やっと二十歳になったぼくは、ゴルソン氏のオフィスでアルバイトをしていた。ゴルソン氏のオフィスに来る日本の青年たちの表情は…

深沢七郎「笛吹川」

「死んで、あんな所に転がせて置くなんて」。おけいは表に出ると、片目で土手の方を睨んで歩き出した。勝やんはまだ死んでいない気がしたのである。右の手で左の腕をさすりながら、側へ行って顔を覗き込んだ。着物はズタズタに斬られていて、身体中が血だら…

平林彪吾「輸血協会」

血の検査場には黒い革張りの寝台が寒々と横たわり、塗の剥げた片隅のテーブルに、顕微鏡と十品ばかりの薬瓶が並べてあった。津曲三次が入ってゆくと、看護婦は断りもせず、品物を取り扱うかのように冷然と、彼の耳たぶを消毒した。若い医師が採血し、何か薬…

上林暁「禁酒宣言」 

酒が小生の生活を滅しそうなのです。深酒、梯子酒、酔いつぶれ。宿酔の自己嫌悪に陥るたびに、今日から酒を慎もうと思い、孤独に身悶えするのです。一日労作の後の静かな喜び、あの楽しい昔に還るために、断固止めたいと思うのです。けれども、どうにも出来…

安部公房「人間そっくり」

「ぼく、火星人なんですよ」というその男は、話をきいていればおとなしいが、興奮状態になると手がつけられないらしい。理屈っぽい火星人は、発作のように笑いながら、ぼくを押しのけて「人間そっくりでしょう?」。・・・しかし、こんな話をしても、どれほ…

円地文子「樹のあわれ」

武治が定年を過ぎても高級呉服部の現役主任でいられるのは、彼の技量を買われている為である。しかし、このごろ老眼に加えて勘が鈍くなってきており、ボロが出る前にそろそろ退職した方が利口だろうと思ってはいる・・・。今日は女店員・熊田葉子に注意をし…

中野重治「空想家とシナリオ」

車善六は空想家だった。たとえば彼は自分の名前の由来についても空想に浸っているのだった。また彼は役所での仕事の合間にも、創造的苦痛を伴うような自分にあった仕事、たとえばシナリオを書くことなどを考えていたのである。彼の空想はどんどん広がってい…

丸谷才一「墨いろの月」

翻訳家の朝倉がバーでマスターから聞いた話によると、どうやら30年ほど前に自分が喧嘩を教えた子供が現在ヤクザの親分になっており、「あのとき教わっていなかったら、今の自分はない」と言ったらしい。喧嘩に負け続ける子供に指南したことは自分の中では美談…

織田作之助「訪問客」

タバコがなければ一行も書けない十吉のために、君代は今日も煙草を持ってきてくれる。ところが、十吉は女房気取りな君代がうとましい。周囲は「あの娘さんを貰ってあげたらどうです」というが、十吉は煙草を吹かしながら、君代のような女を女房にするのは、…

坂口安吾「古都」

ただ命をつなぐだけ、それでいい――。恋に破れて絶望した私は、東京に住むことが出来なくなり、京都に行き着いた。宿にしたのは、地の果てのような末路にふさわしい場所であった・・・。宿の親父らと碁会所を作り、囲碁で先生と呼ばれるようになる。しかし、…

織田作之助「神経」

戦争がはじまると、殺されたあの娘が通っていた「花屋」も「千日堂」も、私が通っていた「波屋」も、大阪劇場も常盤座も弥生座も焼けてしまった。だが、戦後、人々は帰ってくる。焼跡を掘り出して店を構える準備をしている。私は彼らのことを復興の象徴とし…

織田作之助「道なき道」

日本一のヴァイオリン弾きになれ!幼い頃から父に厳しく育てられた壽子は、青白くやせ細りながらも、生来の負けん気で泣いて頼むこともなく、戦っていた。その日は早くお祭りに行きたいと願っていたが、父は太鼓の音がうるさいからと窓を閉め、うだる暑さの…

小林秀雄「人形」

大阪行きの急行の食堂車で、私の前の空席に、上品な格好をした老夫婦が腰をおろした。細君が取り出したのは、おやと思う程大きな人形だった。背広を着、ネクタイをしめているが、しかし顔の方は垢染みてテラテラしており、眼元もどんより濁っていた。妻はは…

横光利一「面」

吉を、どのような人間にしたてるかということについて、家族間で晩餐後、論議されていた。大阪へやるほうがいい、百姓をさせればいい、お茶わん作りをさせるといい・・・。その夜、吉ははてのない野の中で、口が耳までさけた大きな顔にわらわれた。以来、吉…

壷井栄「坂道」

堂本さんは二年前にはじめて家にやってきました。ご家族がなくなってひとりぼっちになったため、家をたよってきたそうです。堂本さんは本当の家族のようでした。この頃、お父さんは仕事探しを半分あきらめて、あまり良くない仕事につきました。けれども若い…

夢野久作「死後の恋」

さぞかしビックリなすったでしょう。アハアハアハ。イヤ、失礼しました。誰でもいい、タッタ一人でいいから、私の話を肯定してくださるお方があったらと思って、貴下を発見けたのです。あなたこそ、私の運命を決定して下さるお方だと信じたのです。私の話を…

萩原朔太郎「ウォーソン夫人の黒猫」

いつものように仕事を片付け、部屋に帰ってきた時、ウォーソン夫人は何物かが中にいることを直感した。しかし、部屋の中には一人の人間もいなかった、ただ、見知らぬ黒猫が一匹坐っていたのである。全ての出入口は閉まっていたのに・・・。どこから入ってき…

三浦朱門「傷だらけのパイプ」

落第して当然の学生を前に、福山は評価を下せないでいた。落第することで彼の人生はどうなるのだろう。だが、彼を卒業させたとしても、社会の害毒を生み出すことになるのではないか。また学生は土下座をしながら「許してください」と言ったのだが、許す、と…

島尾敏雄「子之吉の舌」

ネノと呼びかけても子之吉は振り返らない。弱虫だけじゃなくて横着なやつだ。父親の巳一はそう思った。巳一が手を出して叱ると、子之吉の目におびえが走る。巳一はその表情に愛着を覚えたが、それに反して眼は坐ってきた。二三回振り廻して投げ落としたら、…

椎名麟三「時は止まりぬ」

何故こうなったのか判らないが、ただ一つ確実にいえるのは、僕は死んでしまったということなのだ。こんな人生は耐えがたい、それは発狂しそうな気さえするほどだ・・・。人生に意味を失なった僕は、無意味に過ごした映画館の中で、暗い眼をした女を見つける…

尾崎一雄「猫」

「あたしんちの近所でねえ、赤ちゃんが猫に喰われたんだよ、こわァ」。芳枝は妊娠以後臆病癖がますます昂進し、近ごろは便所へ行くことすら渋っている。それもこれも私に稼ぎがないためである。「赤ちゃんが猫に似てたらどうしよう」と言う芳枝を、私は軽くあし…

内田百輭「サラサーテの盤」

亡夫の遺品を、まるで取り立てるかのように返してもらいにくる未亡人・おふさ。そして彼女と一緒にやってくる、六つになる遺児。いくら言っても家の中に入ってこず、外の闇に一人で立ったまま・・・そして今夜はサラサーテのレコードを取りに来た。サラサー…

武田麟太郎「日本三文オペラ」

このアバートは隣室の声が響き、お互いの生活は半ば丸出し、床や壁には人間の色んな液汁が染みこんで汚く悪臭を発散しており、狭くて汚い部屋ばかりである。それでも家賃の安さからたいていの部屋が塞がっていた。最低レベルのアパートの住人たちによる、三…