武田泰淳

武田泰淳「鶴のドン・キホーテ」

あまり長くつづく沈黙に気味わるくなったそのとき、鶴田が思いつめた様子で片手を懐に差し入れて、古新聞紙にくるんだつまらない包みをサメ子の方に差し出しました。そのときの彼の眼は異様な光を発していたのです。矛盾した怒りと悲しみのほかに、求愛のせ…

武田泰淳「歯車」

速水兄弟こそは本当の天才でした。兄の勘太郎さんには経営の才が、弟の勉次さんには職人の腕があった。だが私の拝見したところ、真の仕事の神様、発明の天才は弟さんの方だった。御ふたりの智能が歯車のように噛みあって、会社は大きくなったと世間一般は考…

武田泰淳「甘い商売」

吉川冬次がサイパン島についたとき、N拓殖とM殖産の駐在員の出迎えはなく、集まってきたのは、痩せ衰えた日本人たちであった。夜になると宿舎の窓をこえて、奇妙な歌声が流れてくる。それは陰気で暗澹たるメロディだった。会社に対する怨みつらみ、やけく…

武田泰淳「貴族の階段」

節子は恥ずかしくて申しわけなくて、死にたいほどだった。全身がけいれんし、呼吸がみだれてくる。見つめる標的はかすんできて・・・起ち上ろうとする節子に、兄は思わず両腕をさし出した。節子はのろのろと起ち上ったが、ふたたび精も根も尽きはてたように…

武田泰淳「森と湖のまつり」

映写がつづいているあいだも、入口からは絶えずアイヌたちが降りてきた。そのとき、ツルコ、ツルコというささやきが、女たちの口から口へ伝わった。鶴子は雪子の傍に腰をかがめると、「つまんないな」とつぶやいた。「あいかわらずだな、君は」と池博士は言…

武田泰淳「快楽」

宝屋の若夫人の肉の魅力とその妹・久美子の思いつめた姿が、女への執着を棄てることが出来ない青年僧・柳の頭にあった。善を知るためにはまず悪を知らなければならないと若夫人は言い寄るが、柳は「いやだいやだいやだ」と首をふるばかりだった。悪僧・穴山…

武田泰淳「女賊の哲学」

美しく賢い、しかも強い第二夫人に暗い過去がかくされていようなどとは、誰も想像できなかった。ある朝、城に向って白蓮教の集団が迫ってきたのである。夫の県長はいつまでも来ない援軍を求めながら、次第に発狂したようになった。第一夫人が「私たちを救っ…

武田泰淳「もの喰う女」

私は最近では、二人の女性とつきあっていました。男友達も多い弓子との付き合いは、愛されているようであり、馬鹿にされているようでもあり、その反動が私を房子に近づけました。房子は喫茶店で働く、貧乏な女でした。彼女のそばに居ると、弓子のおかげでい…

武田泰淳「異形の者」

私はうまれつき自立独立の精神が欠けて居り、かつその他にすべきこともなかったため、寺に生れた者にとって一番安易の路を選んだのである。だが女を熱望する以上、僧侶になりきることはできぬと思った。彼女らがそり落とした頭を見るときの、瞳のおびえは当…

武田泰淳「第一のボタン」

近未来。死刑囚スズキは、ある日、司令部に呼び出されて「ボタンを押す」という司令を受けた。あまりにも簡単であっけない仕事である。意志をもたない愚かなスズキは、さほど考えることもなく、指令通りにそのボタンを押す。それは戦争相手の首都を破壊する…

武田泰淳「夜の虹」

唐木は「思想犯」として捕らえられているが、実は彼は「殺人犯」でもあった。このことは秘密である。またこの空襲下では、知られるはずもないという安心感もあった。だが、留置場に最近、脱獄の名人・石田が収監されてきた。彼は明確な「殺人犯」であった。…

武田泰淳「ひかりごけ」

投げやりに眺めやったさきの一角でだけ見える「ひかりごけ」。これを見学した私たちは村へもどり、校長の話を聞きました。遭難しかけた話、登山の苦労、人肉を食べた男の話・・・人肉を食べた?私の作家としての感覚が、この話に引き寄せられたのを感じました…

武田泰淳「汝の母を!」

日本軍に捕まった現地の息子と母親を前に、強姦好きな兵士たちは気味悪い笑みを浮かべていた。無知な兵士は「バカヤロウ!」程度の意味で「ツオ・リ・マア!」と叫んだが、それは「お前のおふくろはメス犬だ!」といった意味だった。満足する結果の後、親子…

武田泰淳「ゴーストップ」

客のクレーム応対を仕事とする村野は、今日も同僚が起こしたトラブル処理に追われていた。「金のかからないことなら、なんでもハイハイやっておけばいいんだよ」と部長も言う。そこにあの老人が姿をあらわしたのだ。老人の怒りに燃えた目つきは、村野に徹底…

武田泰淳「「愛」のかたち」

肉体に異常な欠陥を持ちコンプレックスに悩む町子は、生活を保障してくれる夫と、1人の女として遇してくれる光雄との間であぶない橋を渡っていた。ところが光雄という男は人間性を持っておらず、感情ではなくテクニックだけで生活する男であったのだ。それで…

武田泰淳「審判」

敗戦によって知った日本の姿、それは世界中から憎まれる日本である・・・。けれども月日はその恐ろしさを癒してゆく。人間なんてそんなものか。けれども、友人となった青年・二郎は違った。彼は戦時中に戦地で行った大罪を、自らの中で処理できずに苦悩し続…

武田泰淳「愛と誓い」

「誓います」との言葉に縛られて生きる男、矢走僕夫の懊悩の様子。誓いを守ることに必死な彼を殺すために、運命の矢が残酷に襲ってくる。キリスト教は迫害され、真の愛について苦悩する。誓いが必要とされる愛は、まだ未熟な愛ではないだろうか。誓いの札び…