武田泰淳「快楽」

 宝屋の若夫人の肉の魅力とその妹・久美子の思いつめた姿が、女への執着を棄てることが出来ない青年僧・柳の頭にあった。善を知るためにはまず悪を知らなければならないと若夫人は言い寄るが、柳は「いやだいやだいやだ」と首をふるばかりだった。悪僧・穴山に嫌らしさを感じつつも、嫉妬し、すごいやつだと思う。しかし、それはなんとなく感じるだけであり、そもそも柳は物事を難しく考えることがない。

快楽〈第1巻〉―けらく (1972年)

快楽〈第1巻〉―けらく (1972年)

 4年45回の連載後中断し、作者死去により未完に終わった、情熱の作家・武田泰淳の自伝的大作。後書きには「主人公柳は、若き仏教僧侶として絶えず恥ずかしさ、強がり、自己弁明にとらわれながら行動するが、同時にきわめて無反省、無意識的な状態にとどまっている」とありますが、これは一般的な青年像です。
 たとえば若くしてリーダーとなり、日本の保守層(ここでは政府やお寺)と戦う人間について、柳は「そんなひとは日本に何人もいない。すごい、えらい」と感じます。しかし、感じるだけです。それも自分の部屋の中で。また彼は「仏教」、「恋愛」、「政治」を行い、いずれにおいても優れた(反面)教師を持つのですが、それらへの取り組みも中途半端。
 仕掛けに対して「いやだ、いやだ」と拒否するものの、「いやならば、どうするんだ」と問い詰められると何も出来ません。逃げるのは嫌だけど、ひとりで走るのはもっと嫌なので。批判はするが、防ぐことは出来ず、防ぐための方策もありません。他人とは違う自分を見出し、自意識を満足させることに躍起だが、それは選択の自由を持つ者の「遊び」に過ぎない。考えているようでいて、実は何も考えていないエゴイスト。そんな彼(=自分=青年一般)に対する作者の目線は、小説の進行とともに、痴呆的なまでに酷くなっていきます。これが今後V字回復するのかどうか、未完のため分からないのですが、青年の姿を偽りなく深くとらえたものとして、迫力十分の小説です。

 「あなたも、私も、死刑場で笑って死ねるような人間でしょうかね。(中略)私の判断によれば、柳さん。あんたという人は、M村の住職さんみたいに、死んでも死にきれずに、迷いつづける方なんですよ」

 柳は、すべてを洗い流し、何もかにも一点に集結して流れて行く、運命の河のようなものを感じた。その「河」の流れに乗って、流されて行く方角が、彼にはすこぶる不安だった。堕落だろうか、進歩だろうか。堕落にきまっているさ。いや、そう言い棄ててしまうのは、彼には不愉快だった。

快楽〈第2巻〉―けらく (1972年)

快楽〈第2巻〉―けらく (1972年)