青春をめぐって

太宰治「正義と微笑」

晴れ。朝十時、兄さんに見送られて、出発した。人生の首途。けさは、本当にそんな気がした。握手したかったのだけれど、大袈裟みたいだから、がまんした。兄さんはどうも試験を甘く見すぎる傾向がある。でも僕は、また落ちるかも知れないのだ。その辛さ、間…

石川達三「青春の蹉跌」

生きることは闘争だ。たった一度しかない自分の人生を悲惨なものにしたくない。どのような幸福を選んだところで俺の自由だ。江藤賢一郎の計算はすべて将来に向かっていた。大橋登美子などへは詐術に対する罪の意識より、自分自身への反省がつのった。司法試…

武田泰淳「快楽」

宝屋の若夫人の肉の魅力とその妹・久美子の思いつめた姿が、女への執着を棄てることが出来ない青年僧・柳の頭にあった。善を知るためにはまず悪を知らなければならないと若夫人は言い寄るが、柳は「いやだいやだいやだ」と首をふるばかりだった。悪僧・穴山…

太宰治「女生徒」

あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い。朝は、なんだか、しらじらしい。朝は、意地悪。眼鏡は、お化け。私の目は、ただ大きいだけで、がっかりする。私はほんとうに厭な子だ。そう言ってみて、可笑しくなった。美しい目のひとと沢山逢ってみたい。けさか…

小林秀雄「中原中也の思い出」

中原は生活に密着した詩を書き、悲しみの救いを悔恨のうちに求め、告白した。しかし告白は、新たな悲しみを作り出す事に他ならなかった。自分の告白に閉じ込められ、出口を見付けることが出来ずにいた。それは彼の誠実のためだ――。現代の随想 5 小林秀雄集作…

野坂昭如「マッチ売りの少女」

木枯しに身ふるわせて、マッチ一つすっては股のぬくもりをむさぼっている。タオルの寝巻きに泥と脂にまみれた半天一枚、半分坊主のざんばら髪に、頬はげっそり、姿かたちは五十過ぎ、けれども実はまだ二十四歳。「お父ちゃんお父ちゃん」とちいさくさけんで…

安岡章太郎「サアカスの馬」

何の特徴も取得もない僕は、担任の清川先生から諦められていた。叱られることもなく、じっと見つめられるのだ。そんなとき僕はくやしい気持にもかなしい気持にもなれず、ただ、目をそむけながら(まアいいや、どうだって)と呟くのだった。そんな少年の前に…

椎名麟三「重き流れの中に」

僕には明日の希望がない。昨日はすでに滅んでいる。明日は昨日の繰り返しだし、今日は廃墟でしかない。けれども明日のことを考えるのは気持がいい!特に天気のことを考えるのは最高だ。生活は徹頭徹尾無意味である。けれどもこの無意味さは笑うことによって…

伊藤整「生きる怖れ」

その大学へ入学した私たち四人の仲間のうちで、私はいつも三人をとりもつ立場にいた。彼ら三人は互いに憎み対立しあい、それでいて皆、私を求めるのである。いわば私は彼らの存在に安心と価値を与え、バランスを取り直すためにいた。――しかし、どうして、い…

野坂昭如「火垂るの墓」

母は息をひきとり周りの人には辛くされ、清太と節子は横穴に住む。すぐに食い物なくなり節子はやせ衰え、人形を抱く力もはいらない。――お父ちゃん、今ごろどこで戦争してはんねんやろ、なあ、お母ちゃん。せや、節子覚えてるやろか、と口に出しかけて、いや…

大江健三郎「芽むしり 仔撃ち」

感化院から集団疎開してきた僕たちは、悪意ある壁に閉ざされたこの村に連れてこられた。家畜のような食料に、僕らの心は屈辱で満たされた。だが数日後、大人たちは逃げていった。この村にみられはじめた疫病から逃げたのだ。僕たちを置きざりにして・・・。…

大江健三郎「見るまえに跳べ」

ぼくは女に「若い人間は戦乱をくぐってこそ成長するさ」と気取っていたが、戦場行きの話をもちかけられたとき、うつむいたまま返事をすることが出来なかった。――おれは跳ばない。いつもそうだ。おれは卑劣だ。ぼくは一生跳ぶことはなく、平凡な職につくのだ…

大江健三郎「鳩」

有刺鉄線に囲われた少年院に、虐げられた心をもつ僕らは暮らしていた。ここは罪や狂気は拡散し、生気を奪い、僕らをよどみに吸いこんでしまうのだ。僕らはすでに老年の《弛緩》をみせていたが、けれども、院長の養子である「混血」には、社会の序列がぎっしり…

堺誠一郎 「曠野の記録」

見渡すかぎり陰鬱な空と、はてしなくつづいている大地――。輸送列車から降ろされた場所は、銃声一つ聞えぬ雪野原であった。お前らの当面の敵は寒さだって、軍医殿がいっていた。しかし退屈でしょうがねえ。訓練だけの日々は士気を低下させていった。せめてソ…

三島由紀夫「雨のなかの噴水」

彼はその言葉をいうために少女を愛したふりをしてきたのだ。男のなかの男だけが、口にすることが出来る言葉。世界中でもっとも英雄的な、もっとも光輝く言葉。すなわち――「別れよう!」 不明瞭に言ってしまったことが心残りだったが、雅子の涙を見て、とうと…

大江健三郎「死者の奢り」

僕と女子学生は医学部の死体処理室で死体処理のアルバイトをしていた。濃褐色の液に浸って絡みあった死体の硬く引きしまった感じ、吸収性の濃密さ、それは完全な推移を終えた《物》だ。マスクをかけていても臭気と死臭は浸入して来、時には耐えがたいほどだ…

野間宏「暗い絵」

どうしてブリューゲルの絵にはこんなにも悩みと痛みと疼きを感じ、それらによってのみ存在を主張しているかのような黒い穴が開いているのだろう・・・。見まいと思ってもこの絵が持つ不思議な力は、彼らに彼ら自身の苦しみと呻きを思い起こさせていた。永杉…

大江健三郎「人間の羊」

バスの中。両隣の外国兵たちは酒に酔って笑いわめき、日本人乗客たちは眼をそむけていた。やはり酔っている女が、僕とからみあって転倒したとき、外国兵は女をたすけ起し、僕を強く睨んだ。肩を掴まれ突きとばされ、ガラス窓に頭をうちつけられた。外国兵は…

大江健三郎「他人の足」

この病棟で僕らはひそかに囁きあうとか、声をおし殺して笑うとかしながら、静かに暮らしていた。しかし、外部からその男が来てから、凡てが少しずつ執拗に変り始めたのだ。彼はすぐに運動をし始めた。寝椅子の少年たちに、あきらめず、愛想よく話しかけてい…

北条民雄「癩を病む青年達」

まだ発症していないため退院の望みを捨てきれなかったが、成瀬のような青年達は驚くべき速さで病院に慣れ、この小さな世界に各々の生活を形作って行くのだった。病院に婦人患者は三十パーセントほどしかいないため、ここでは女は王様で男は下僕である。――成…

安岡章太郎「悪い仲間」

ようやくニキビがつぶれかけてきた夏休みの頃、僕は藤井高麗彦と出会ったのだ。彼は僕をさまざまな冒険に誘っては僕を大いに驚かせ、彼が示唆するさまざまな秘密は、僕の彼に対するイメージを決定付けた・・・。そして夏休みが終わると、僕は高麗彦と同じ行…

三島由紀夫「百万円煎餅」

おばさんとの約束にはもう少し時間がある。健造と清子はデパートに入った。ずっと質素に暮らしてきた彼ら夫婦は、あらゆることに慎重だった。しっかりと貯金し、計画を立てて将来を見据えていた。そのとき、オモチャの空飛ぶ円盤が宙を飛び、「百万円煎餅」…

伊藤整「若い詩人の肖像」

小樽で教師をしていた私は、中央で続々と生れる若い詩人たちに、嫉妬と焦りを感じていた。発表欲が出てきていた私は、詩壇のドングリの末席にでも加わりたかったのである。冬になり、完成した自費出版の詩集を150名ほどの詩人に送ることにした。行為の意味を…

椎名麟三「神の道化師」

「世間の恐ろしさ」を父親に叩き込まれて育った準ニは、「社会という権威ある王城」を恐れていた。ところが、16才のとき、予定外に家出してしまった彼は、不本意ながらも「社会」に暮らすことになった。身寄りのない彼が向かった先は、浮浪者が集まる無料宿…

織田作之助「髪」

丸刈りが当然とされるた戦中のあの時代を、私は長髪で通しきったのである。権威を嫌うあまりルールを破りとおし、髪を守るために退学の道をさえ選んだのだった。つまりこの長髪には、ささやかながら私の青春の想出が秘められているのだ。男にも髪の歴史とい…

織田作之助「六白金星」

楢雄は生れつき頭が悪く、要領が悪く、秀才といわれる兄とは違って、母親の期待をことごとく裏切ってばかりであった。そんな楢雄も落第を機にとうとう家を出たが、気が気でならない母は楢雄の行為にことごとく口を出す・・・。嫌い合っているわけじゃないの…