大江健三郎「他人の足」

 この病棟で僕らはひそかに囁きあうとか、声をおし殺して笑うとかしながら、静かに暮らしていた。しかし、外部からその男が来てから、凡てが少しずつ執拗に変り始めたのだ。彼はすぐに運動をし始めた。寝椅子の少年たちに、あきらめず、愛想よく話しかけていた。すると次第に、いつもの卑猥な忍び笑いは消えていったのだ。(あいつは、うまくやっていやがる)。僕は苦々しく思った。

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

 小さな身内グループの中に飛び込んできた学生は「外の風」を持っていました。それまでグループのリーダー格だった「僕」は、みんなの様子が変化していくのが面白くありません。
 「僕」がみんなを支配する掟は<病気を理由に出来る>ことを知った上での「諦め」であり、「意地」と「リーダーシップの快感」による助長があったのですが、学生はたとえ病気であったとしても社会に立ち向かっていけることを示します。「僕」の存在は根っこから破壊され、そのあとに小さな息吹が生まれるのですが・・・。少年たちのためのストーリー。
 なお、「カッコーの巣の上で」という映画は、新参の人間がそれまでの閉鎖環境を劇的に変える物語ですが、この「他人の足」では『それまでの環境に満足しており、影響を受けるどころか新参の彼に嫉妬する人間』を配置して、そこからの視線を描いており、より複雑です。

 足が動かないのさ、と僕はいった。立上がりたくてもね。僕らは、この一棟に漂流して来た遭難者なんだ。海の向うのことは知らないよ。
 そんな考えは無責任すぎる、と学生がいった。僕らこそ、手を繋ぎあって、一つの力になる必要がある。そして、病院の外の運動と呼応するんだ。
 僕は誰とも手を結ばない、と僕はいった。僕は立って歩ける男とは無関係だ。