2005-02-01から1ヶ月間の記事一覧

椎名麟三「時は止まりぬ」

何故こうなったのか判らないが、ただ一つ確実にいえるのは、僕は死んでしまったということなのだ。こんな人生は耐えがたい、それは発狂しそうな気さえするほどだ・・・。人生に意味を失なった僕は、無意味に過ごした映画館の中で、暗い眼をした女を見つける…

尾崎一雄「猫」

「あたしんちの近所でねえ、赤ちゃんが猫に喰われたんだよ、こわァ」。芳枝は妊娠以後臆病癖がますます昂進し、近ごろは便所へ行くことすら渋っている。それもこれも私に稼ぎがないためである。「赤ちゃんが猫に似てたらどうしよう」と言う芳枝を、私は軽くあし…

石川淳「無明」

多賀彌太郎は武家の非礼をこらえかねてなじれば、武家はあざ笑ってののしった。勢い刀をつかむに、さきも手が早い。ただし浅手。彌太郎ひるまず、抜打に一刀、これを斬りたおした。やむをえぬ仕儀、武家の死骸の上に腰かけて、もはやこれまでと切腹、刀をく…

牧野信一「ゼーロン」

はるか村まで行かなければならないが、険しい道にも連れがいる。あのときのコンビ復活、愛馬ゼーロンとの遠出再び。けれども、おお、酔いたりけりな、僕のペガサス、ロシナンテは、しばらく見ないうちに驢馬になっていた――。私に舌を噛ませようとしたり、転…

埴谷雄高「虚空」

"Anywhere out of the world!" 地の果てに到着した私が発したその声は、虚空への呼びかけである。虚空への内なる切なげな喘ぎである。虚空には透明な風がはためいている。けれども地を這う習性を持つ私の喘ぎは、そこで自身へとひきもどされる――。数日前に、…

内田百輭「サラサーテの盤」

亡夫の遺品を、まるで取り立てるかのように返してもらいにくる未亡人・おふさ。そして彼女と一緒にやってくる、六つになる遺児。いくら言っても家の中に入ってこず、外の闇に一人で立ったまま・・・そして今夜はサラサーテのレコードを取りに来た。サラサー…

梅崎春生「侵入者」

玄関扉をあけたとたん、見知らぬ男たちがずかずかと上がってきた。1人が言った、「大丈夫ですよ、この家には写真をとられる義務があります」。・・・義務?この家はむろん彼のものだ。けれども、彼は所有を示す方法を知らない。男たちは三脚を準備しはじめ…

武田麟太郎「日本三文オペラ」

このアバートは隣室の声が響き、お互いの生活は半ば丸出し、床や壁には人間の色んな液汁が染みこんで汚く悪臭を発散しており、狭くて汚い部屋ばかりである。それでも家賃の安さからたいていの部屋が塞がっていた。最低レベルのアパートの住人たちによる、三…

安岡章太郎「走れトマホーク」

私たちは巨大ビスケット会社の招待で、アメリカ西部を団体旅行していた。大歓迎を受け、楽しいときをすごし、そして次の町へ行く。はじめは気楽な旅行だった。だが、その間、会社は特に何の宣伝を要求することもなく、誰から何を言われることもなかった。そ…

牧野信一「天狗洞食客記」

「エヘン!」と咳払いを発すると、右手の先で顎を撫で、それから左腕を隣りの人を抱えるように横に伸して、薄ぼんやりとギョロリ。奇妙な癖をもち、それが頻発するようになった私は、周りの人々にことごとく気味悪がられた。そこで私はR氏の世話で、天狗洞…

萩原朔太郎「猫町」

私は、道に迷う。意図的に、道に迷う。不安から抜け出したところに、快楽があるために他ならない。その日も私は、道に迷っていた。ところがそのとき現れたものは、全く見ず知らずの町であった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう?どうしてこんな…