牧野信一「ゼーロン」

 はるか村まで行かなければならないが、険しい道にも連れがいる。あのときのコンビ復活、愛馬ゼーロンとの遠出再び。けれども、おお、酔いたりけりな、僕のペガサス、ロシナンテは、しばらく見ないうちに驢馬になっていた――。私に舌を噛ませようとしたり、転落を招こうとしたり怖ろしい状態になり・・・。

ゼーロン・淡雪 他十一篇 (岩波文庫)

ゼーロン・淡雪 他十一篇 (岩波文庫)

 コミュニケーションが取れていないようで取れている、ようで取れていない、人間と馬の交流が、異様なまでにハイテンションな文体で活写されます。彼らははじめは農村地帯での点景物ですが、徐々に大きな存在となり、竜巻を巻き起こしながら村々を駆け巡ります。普段は自己主張のない「私」ですが、馬の力を借りて目立つ言動が出来、慌てふためきながらも、とても気分が良さそうです。なお、「夜見の巻 「吾ガ昆虫採集記」の一節」は続編といえる作です。

 私は鞍を叩きながら、将士皆な盃と剣を挙げて王に誓いたり、吾こそ王の冠の、失われたる宝石を……と、歌い続けて拳を振り廻したが頑強な驢馬はビクともしなかった。

 私は鞍から飛び降りると、今度は満身の力を両腕にこめて、ボルガの舟人に似た身構えで有無なく手綱をえいやと引っ張ったが、意志に添わぬ馬の力に人間の腕力なんて及ぶべくもなかった。単に私の脚が滑って、厭というほど私は額を地面に打ちつけたに過ぎなかった。私は、ぽろぽろと涙を流しながら再び鞍に戻ると、
 「あの頃のお前は村の居酒屋で生気を失っている僕を――」と殊更にその通りの思い入れで、ぐったりとして、恰も人間に物言うが如くさめざめと親愛の情を含めて、
 「ちゃんとこの背中に乗せて、深夜の道を手綱を執る者もなくとも、僕の住家まで送り届けてくれた親切なゼーロンであったじゃないかね!」と掻きくどきながら、おお、酔いたりけりな、星あかりの道に酔い痴れて、館へ帰る戦人の、まぼろしの憂ひを誰ぞ知る、行けルージャの女子達……私はホメロス調の緩急韻で歌ったが、ゼーロンは飽くまでも腑抜けたように白々しく埒もない有様であった。