武田泰淳「鶴のドン・キホーテ」

あまり長くつづく沈黙に気味わるくなったそのとき、鶴田が思いつめた様子で片手を懐に差し入れて、古新聞紙にくるんだつまらない包みをサメ子の方に差し出しました。そのときの彼の眼は異様な光を発していたのです。矛盾した怒りと悲しみのほかに、求愛のせ…

武田泰淳「歯車」

速水兄弟こそは本当の天才でした。兄の勘太郎さんには経営の才が、弟の勉次さんには職人の腕があった。だが私の拝見したところ、真の仕事の神様、発明の天才は弟さんの方だった。御ふたりの智能が歯車のように噛みあって、会社は大きくなったと世間一般は考…

武田泰淳「甘い商売」

吉川冬次がサイパン島についたとき、N拓殖とM殖産の駐在員の出迎えはなく、集まってきたのは、痩せ衰えた日本人たちであった。夜になると宿舎の窓をこえて、奇妙な歌声が流れてくる。それは陰気で暗澹たるメロディだった。会社に対する怨みつらみ、やけく…

長谷川四郎「鶴」

そこは円形の小部屋で、外に出ているのは機関銃ではなくて、望遠鏡だった。敵陣地見取図には至るところに番号があり、敵がいることを意味していた。しかし望遠鏡からは肉眼では見ることのできないものが、はっきりと見えたのである。朝露のきらめいているゆ…

武田泰淳「貴族の階段」

節子は恥ずかしくて申しわけなくて、死にたいほどだった。全身がけいれんし、呼吸がみだれてくる。見つめる標的はかすんできて・・・起ち上ろうとする節子に、兄は思わず両腕をさし出した。節子はのろのろと起ち上ったが、ふたたび精も根も尽きはてたように…

石川淳「飛梅」

愛情のかぎりに光子を育てた大八だったが、帰国してみると光子は不良になっていた。その間育てていた十吉の返事は歯切れが悪い。光子に逢うこと叶わず、ついと大八は立ちあがり、「おれは必ず光子に逢ってみせるぞ」と息まいてようやく外に出て行った。する…

中島敦「悟浄出世」

悟浄は病気だった。彼は一万三千の妖怪の中で、最も心が弱い生き物だった。「俺は莫迦だ」とか「俺はもう駄目だ」とか「どうして俺はこうなんだろう」とか呟いていたのである。医師の魚妖怪に「この病には自分で治すよりほかは無いのじゃ」と言われ、とうと…

高見順「インテリゲンチャ」

東大卒の満岡は、インテリに見合った仕事として、新聞の社説を書いていた。だが、最近、悩みを持ち始めたようである。結局、社説なんてトップの意向に従った、枠内の仕事なのではないか、だとするならば、タイピストと大差ないのではないか・・・。「観念」…

島尾敏雄「勾配のあるラビリンス」

私はたそがれの頃、大都会の真中に突き出ていて、街の屋根を見下す公園に現れた。ところがそのときに限って、他に人が誰も現われなかった。――私は空虚を前に発作に襲われ、走り出していた。人の影を求める。それは世間では普通の顔をしているが、実際は追い…

石上玄一郎「気まぐれな神」

敗戦により日本人は追いやられ、私はお菊さん家に下宿することになった。そこに彼女の友人のミセス・アトキンソンがたずねてきた。この人物、外見は日本人だが、態度や表情は西洋婦人に近い。お菊さんによると、彼女は戦争中は日本人を名乗っていたという。…

野間宏「顔の中の赤い月」

戦争で生きる支えを失った男・北山年夫と、女・堀川倉子の出会い。彼らの関係の発展をジャマするのは、北山が戦場でつかんだ『自分のことは自分で解決するしかない』という戦場での哲学だった・・・。過去を清算しきれない段階での新たな出会いは、とうとう…

石川淳「喜寿童女」

江戸下谷敷数奇屋町にいた名妓・花は、幼い頃から精気さかんで、生涯に男を知ること千人を越えた。それが天保四年癸巳三月一日、花女七十七歳の喜寿の賀宴のさなか、とつじょ行方知れずになった。そして花女は胡兆新伝来の甘菊の秘法により、老女変じて童女…

梅崎春生「贋の季節」

借金を踏み倒して夜逃げしてきたサーカス団は、この町でも悲惨な客入りが続いていた。そんなとき、私は「お爺さん」を舞台に出したらどうだろうか、と提案したのである。それは何の芸もなく、ただ叫んで逃げようとするだけの老猿である。ところがサーカス団…

島木健作「黒猫」

絶滅寸前のオオヤマネコは、人間を相手にしても、そこから逃げることはなかった。立ち向かうことすらしなかった。人間の頭上から後肢を持ち上げて小便を引っかけたのである!人間など、彼にとってその程度のものでしかなかったのである――!猫に理想を託した…

椎名麟三「罪なき罪」

飼い犬に向かって、いつものように「おまえだけだよ、私の言うことを分かってくれるのは」と嘆いていた志津は、背後から子供に声をかけられた。「おばさん、死にたいの?」志津は、つまらない気がして云った。「そうよ、・・・おばさん、死ねたらと思ってい…

安部公房「砂の女」

昆虫採集にきた男が一晩の宿としてあてがわれたのは、砂の崖に囲まれた家。そこには年若い女が一人住んでいた。家に降り積もる砂、食事のときには傘がいり、ふとんはますますしめっぽい。女もさっさとこんな家を出ればいいのに・・・流動し続ける1/8mmの砂の…

梅崎春生「記憶」

その夜彼はかなり酔っていた。家まであと三十メートル、このタクシーの運転手は暗いからといって停車した。「今までのタクシーはぜんぶ通ったよ」「おれはイヤだね」。前を向いたまま、運転手はいった。思えば、まだ顔を見ていない。「歩いたらどうですか」…

高見順「起承転々」

大人の雰囲気を醸し出す令嬢・雅子に近づいた印南は、兄を名乗る男・佐伯とも知り合いになる。早合点した印南の母親は、佐伯夫人の元へ行き、そちらの妹さんと今後も宜しくお付き合いのほどをと菓子折り持参で出かけるが、どういうわけか話が全然かみ合わな…

梅崎春生「幻化」

中年男の五郎は、精神病院から抜け出して飛行機に乗っていた。目的地は20年前、生命に対して自信があった頃に過ごした場所である。・・・だが、到着してみると、そこの風景は大きく変っていた。五郎の青春は病室で過ぎ去ったのだ。五郎は歩き出した。何のた…

大江健三郎「個人的な体験」

アフリカ旅行の夢を抱く鳥(バード)が授かった、障害をもった赤んぼう。障害のある怪物に人生を引きずられたくはない。そうでなければ、これからの生活は?・・・すでに植物のような赤んぼう。どうせ死ぬだろう。すぐに死ぬはずだ。死んでくれ。・・・エゴ…

石川淳「虎の国」

猿狩を催した中に豪のもの、今枝無利右衛門がいた。猿めを追って山へ分け入れば、いつしか自らも見失う。大脇差の男と出会い、うかがうに、近隣一ところは、今は加賀領でも越前領でもないという。無利右衛門いぶかしげに問う。年貢もなければ掟もないが、酒…

大江健三郎「後退青年研究所」

この世界は暗黒の深淵にむかって傾斜しているので、敏感なものたちは、いつしか暗黒へすべりおち、地獄を体験するのだ・・・。やっと二十歳になったぼくは、ゴルソン氏のオフィスでアルバイトをしていた。ゴルソン氏のオフィスに来る日本の青年たちの表情は…

新美南吉「おじいさんのランプ」

東一君が倉の隅から持ち出してきた、おじいさんの思い出のランプ・・・それは50年ぐらい前の話である。仕事を探していた十三才の巳之助は、ある日隣町でランプを見つけた。少年の村にはランプなんてなかったため、美しく明かるいランプに見とれ、そして思っ…

中島敦「狐憑」

弟の惨殺を直視して以来、シャクは妙なうわごとを言うようになった。一同はそれを弟の霊が喋っているのだと結論した。だが、シャクの言ううわごとは日に日に多彩になっていった。人々は珍しがってシャクのうわ言を聞きに来た。だが、あるとき一人の聴衆が言…

太宰治「正義と微笑」

晴れ。朝十時、兄さんに見送られて、出発した。人生の首途。けさは、本当にそんな気がした。握手したかったのだけれど、大袈裟みたいだから、がまんした。兄さんはどうも試験を甘く見すぎる傾向がある。でも僕は、また落ちるかも知れないのだ。その辛さ、間…

深沢七郎「笛吹川」

「死んで、あんな所に転がせて置くなんて」。おけいは表に出ると、片目で土手の方を睨んで歩き出した。勝やんはまだ死んでいない気がしたのである。右の手で左の腕をさすりながら、側へ行って顔を覗き込んだ。着物はズタズタに斬られていて、身体中が血だら…

開高健「ずばり東京」

東京へ、東京へと人がおしよせてくるので土地の値段がめちゃくちゃにあがっている。練馬のお百姓さんとなると、十億、二十億になるという。みんなどんどん転業して、社長になり経営者になっている。しかし、話を聞いた七人のうち、一人だけ今も変わらずに、…

平林彪吾「輸血協会」

血の検査場には黒い革張りの寝台が寒々と横たわり、塗の剥げた片隅のテーブルに、顕微鏡と十品ばかりの薬瓶が並べてあった。津曲三次が入ってゆくと、看護婦は断りもせず、品物を取り扱うかのように冷然と、彼の耳たぶを消毒した。若い医師が採血し、何か薬…

三島由紀夫「命売ります」

まったく社会がゴキブリに見えたのだ。羽二男は自殺に失敗したことで軽くなり、これまで感じたことのないような気持ちになった。何もかもどうでもよく、生き死にを超越したのだ。そこで三流新聞に広告を出した。「命売ります。当方27歳。秘密は守ります」。…

上林暁「禁酒宣言」 

酒が小生の生活を滅しそうなのです。深酒、梯子酒、酔いつぶれ。宿酔の自己嫌悪に陥るたびに、今日から酒を慎もうと思い、孤独に身悶えするのです。一日労作の後の静かな喜び、あの楽しい昔に還るために、断固止めたいと思うのです。けれども、どうにも出来…