島尾敏雄

島尾敏雄「勾配のあるラビリンス」

私はたそがれの頃、大都会の真中に突き出ていて、街の屋根を見下す公園に現れた。ところがそのときに限って、他に人が誰も現われなかった。――私は空虚を前に発作に襲われ、走り出していた。人の影を求める。それは世間では普通の顔をしているが、実際は追い…

島尾敏雄「出発は遂に訪れず」

固い眠りから覚めた私は、変りのない一日がまだ許されていることを知る。死の淵に立っていても睡眠と食慾を猶予できないことが、私を虚無と倦怠におしやり、暗い怒りにみまう。特攻隊の指揮官として出来ることはすでにないが、さし迫った状況はどこに行った…

島尾敏雄「子之吉の舌」

ネノと呼びかけても子之吉は振り返らない。弱虫だけじゃなくて横着なやつだ。父親の巳一はそう思った。巳一が手を出して叱ると、子之吉の目におびえが走る。巳一はその表情に愛着を覚えたが、それに反して眼は坐ってきた。二三回振り廻して投げ落としたら、…

島尾敏雄「摩天楼」

私は眼をつぶるだけで私の市街のようなものを建設したり崩したりしてみせたりすることが出来る。この私の市街は夢の中の断片をつなぎ合わせたもので、人が密集しているかと思えば空き地があり崩れ落ちた場所があり、野原すらあるように思われる。私はこの市…

島尾敏雄「接触」

私も含まれていたが、近くの席にいた七人は授業中にアンパンを食べた。それは規則で正しくないこととみなされ、その罰は死刑である。くつがえすことのできない校則第十九条に記された規則は、空気ほどの抵抗もなくみんなに受け入れられた。私たちは裁縫室に…

島尾敏雄「徳之島航海記」

出撃の指令を待つ日の下で、私は体をこわばらせていた。私は飛行機からの爆撃を恐れていた。だがそれを人に言うことは出来なかった。私は部隊長だったからである。そう、私は臆病なのである。部隊長として常に注目をあび、全ての行動に責任が要求されるが、…

島尾敏雄「島の果て」

むかし、世界中が戦争をしていた頃のお話なのですが――。隣の部落のショハーテに、軍隊が駐屯してきました。みんなおびえていましたが、聞くところによると中尉さんは軍人らしくないそうです。中尉さんは、子供たちとも仲良くしていました。ところで敵の影が…

島尾敏雄「格子の眼」

この家の二階の廊下には、どういうわけか格子がはまり、下の部屋を見ることが出来る。百合人は穴がどんどん大きくなって自分を吸い込んでしまう恐怖におびえ、あるときは反対に穴から自分が鬼みたいなものに覗かれているような悪寒を感じていた。なぜなら百…