島尾敏雄「出発は遂に訪れず」

 固い眠りから覚めた私は、変りのない一日がまだ許されていることを知る。死の淵に立っていても睡眠と食慾を猶予できないことが、私を虚無と倦怠におしやり、暗い怒りにみまう。特攻隊の指揮官として出来ることはすでにないが、さし迫った状況はどこに行ったのか、こんなに静かな時を刻んでいることが理解できない。八月十三日の特攻戦発動の指令が即時待機に代わり、発進の指令なく十五日を迎えた。

出発は遂に訪れず (新潮文庫)

出発は遂に訪れず (新潮文庫)

 出発準備の指令を受け、死のための準備を整えたにもかかわらず、本部の判断により発進が延期され、そのままの状況で一晩、二晩・・・。死ね、いや、もう少し待て、そのあとで死ね。そんな中で特攻隊のリーダーである主人公は、隊の規律とともに維持しなければならない緊張により、神経を磨り減らし、心身に乱れを生じます。描かれていくのは、リーダーの孤独、居所を求める感情、そして、決心が些細な事柄にゆれる様、さらには「生」と引き換えに失っていく秩序の崩壊など。
 責任感から外れた場面での「笑い」の姿が、隊長とはいえ彼の青年に過ぎない素顔を現し、作品のピークかと思われます。頭では押さえていた生への渇望が、心の底からの突き上げにあい、上から事実として降ってくるのです。けれども認めなければならないものを単純に認めさせないものは、「組織」へのサムライ的な忠義心でしょうか。
 センテンスの多くは豊富なボキャブラリーをもったロジックに満ちています。落ち着き払った目線はストーリーに深みを与え、思考の厚みを増す役割を果たしています。これは島尾敏雄作品の全般に言える特徴かと思われますが、本作では不穏な空気を漂わせるラストまで、緊張感に満ちた精神の脈動が描写されています。

 巨大な死に直面したすぐそのあとでも、眠りは私を襲い、空腹が充たされない欠乏の顔付をかくさないで、訪ねてくる。もうすぐ死ぬのだからという理由で睡眠と食慾を猶予してもらうことができないことは、私を虚無の方におしやる。でもからだの底の方にうっすら広がりだしたにぶいもやのような光の幕はなんだろう。

島尾敏雄 (ちくま日本文学全集)

島尾敏雄 (ちくま日本文学全集)