2004-06-01から1ヶ月間の記事一覧

帯正子「可愛い娘」

その名高い病院は、なんということもない明るい空の下にたっていた。まるで授業の終った校舎というかんじである。かっぽう着の掃除のおばさんが床をふいている。どうも、かっぽう着は同じところを、ゆっくりと拭いているだけのようだ。私は、待った。まだ同…

堺誠一郎 「曠野の記録」

見渡すかぎり陰鬱な空と、はてしなくつづいている大地――。輸送列車から降ろされた場所は、銃声一つ聞えぬ雪野原であった。お前らの当面の敵は寒さだって、軍医殿がいっていた。しかし退屈でしょうがねえ。訓練だけの日々は士気を低下させていった。せめてソ…

能島廉「競輪必勝法」

私は東大を卒業後、出版社に就職し、従兄弟の良雄は競輪選手になった。私も彼も将来を嘱望されていたのだが、3年、4年と経った頃、良雄は稼ぎを酒につぎ込むようになり、私も仕事を休んで競輪へ出かける日が多くなっていた。良雄は酒を飲まなければ、まだA…

木山捷平「耳学問」

私は耳学問であるがいくつかのロシヤ語を知っている。オイ。コラ。馬鹿野郎。日本人。陰部。交接。これらの他に「ヤー、ニエ、オーチエン、ズダローフ」=「私は病気である」も棒暗記した。それでも八月十二日、私は現地招集というやつを受け、バクダンをも…

今日出海「天皇の帽子」

果てしなく巨大な頭。それが成田弥門の最も目立つところであった。真面目だが成績はあがらず、追従やはぐらかす術を知らず、彼は博物館の雇員となった。何々博士や宮内庁の高官が出入りするところで働くことは、端厳な武家風教育で育った彼にとって誇りだっ…

浅井美英子「阿修羅王」

それにしても、このブヨブヨの怪物は何一つ自分で出来やしない。脅迫するような泣き声に、世話をされている身の程を考えない傲慢な奴だ。紐で阿加の胴を縛って外出したが、帰ってくると窒息しかけていたようだ。まったく忌々しい――。母・加知子の育児放棄に…

梅崎春生「ボロ家の春秋」

僕が借りている家に突然、野呂旅人という男がやってきました。そんな話は聞いちゃいませんでしたが、どうやら二人とも貸主に騙されたらしい。僕らは被害者同士で気持ちを通じ合わせたのですが、この友好関係は長続きしませんでした。この野呂は嫌がらせが好…

梅崎春生「崖」

私はなるべく目立たない存在に自分をおくことで、摩擦から逃れようと努力していた。なので(なぜ加納は謝らないのか?)と加納への私刑を見ていて、私は思った。機を見て謝れば、それで済む場合があるのだ。彼を支えているのは自尊心と英雄ぶりへの自己陶酔…

梅崎春生「山名の場合」

山名申吉は、いつも同僚の五味司郎太とセットで扱われていました。いずれも三十一歳、背丈低く、独身、国語教師、職員室での机も隣同士で、月給の額までぴたりと一致していたのです。山名はいつしか五味をぼんやりと憎むようになりました。同類意識、競争意…

壇一雄「終りの火」

妻・リツ子は昏々と眠っている。リツ子のお腹は生気も弾力も失い、死火山のようにげっそりと陥ちている。舌と唇の亀裂はひどく、微塵のひびに犯されている。知覚も何もなくなっているにちがいない。足は足とは思えず、巨大なキノコの類に思われた。父は息子…

三島由紀夫「雨のなかの噴水」

彼はその言葉をいうために少女を愛したふりをしてきたのだ。男のなかの男だけが、口にすることが出来る言葉。世界中でもっとも英雄的な、もっとも光輝く言葉。すなわち――「別れよう!」 不明瞭に言ってしまったことが心残りだったが、雅子の涙を見て、とうと…

石川淳「紫苑物語」

あくる日の狩、国の守である宗頼はおなじほどの年ごろの平太とあった。やつに守の命はつうじず、すさまじい気迫に圧せられ、宗頼ははずかしめを、いや、のろいを受けた。宗頼はふもとから山上を振り返り、敵の背をにらむ・・・。宗頼は民を殺しては、そのあ…

石川淳「黄金伝説」

戦争以来すっかり自分を見うしなったわたしは、いくたびか息絶えようとしたが、狂いながらもカチカチとこの世をきざむ時計の音が、わたしを地上に引きとどめたのだった。そして汽車に乗って諸国を走りまわっては、三つの願いをかなえようとしたのである。狂…

大江健三郎「死者の奢り」

僕と女子学生は医学部の死体処理室で死体処理のアルバイトをしていた。濃褐色の液に浸って絡みあった死体の硬く引きしまった感じ、吸収性の濃密さ、それは完全な推移を終えた《物》だ。マスクをかけていても臭気と死臭は浸入して来、時には耐えがたいほどだ…

遠藤周作「四十歳の男」

二度の手術が失敗し、三度目の手術に踏み切らなくてはならなくなった。三年に及ぶ能瀬の入院費は家計をひどく圧迫している。高価な九官鳥を買えというのは、思いやりのない注文にちがいない。しかし能瀬は今、どうしてもあの鳥がほしい。能瀬は神父にすら言…

石川淳「焼跡のイエス」

炎天下の雑踏の中、汚らしくみすぼらしい少年があらわれた。顔中膿にまみれ、服と肌のけじめなく、悪臭を放ったひどい生きものである。すると近くをあるくひとのむれを、いきなり恐怖の感情がおそったようだ。だが、少年はひとり涼しそうに遠くを見つめ、ま…

野間宏「暗い絵」

どうしてブリューゲルの絵にはこんなにも悩みと痛みと疼きを感じ、それらによってのみ存在を主張しているかのような黒い穴が開いているのだろう・・・。見まいと思ってもこの絵が持つ不思議な力は、彼らに彼ら自身の苦しみと呻きを思い起こさせていた。永杉…

野間宏「第三十六号」

刑務所内で私は、第三十六号という番号の男と親しくなった。彼は溜息のつき方(それは独房に奏でられる唯一の音楽であった)や、点呼の返事の仕方などで刑務所慣れした人間を感じさせた。しかし、それが他人を意識したポーズであることは明らかだった。私は…

石川淳「マルスの歌」

あの歌が聞えて来ると、わたしは指先のいらだちを感じては原稿をびりびりと引き裂き、感情の整理を試みるが、結局は立ち上がって街頭の流行歌に向かってNO!とさけぶのだ。だが、道行く全ての人間が国威高揚の流行歌「マルス」をあきずに歌っているところ…

色川武大「百」

私はこれまで九十五になる父親と八十近い母親の世話をずっと回避し続けてきた。なぜなら父親は私の土地に平気で攻め込んでくるからだ。私が初めて書いた小説は、父親を叩き殺す話だった。しかし現実の父親はなかなか死なない。この父親のそばに居てやるため…

林芙美子「下町」

夫がシベリアへ行ってから、りよは幸福を味わったことは一度もなかった。歳月は彼女の生活の外側で、何の感興もなく流れている。りよは、鉢巻の男の様子が、人柄のいい人物のように思えたので、おそるおそるそばへ行って、「静岡のお茶はいりませんでしょう…

開高健「裸の王様」

太郎には友人がいない。彼は周囲に対して圧迫感を抱き、心の四囲に壁をつくって孤独のなかに住んでいた。彼のスケッチブックは、努力を放棄した類型であった。人間の姿は描かれず、彼の心の不毛を物語っていた・・・。画の先生であるぼくは、子供に技術を教…

石川淳「野ざらし」

東南西にはそれぞれ店があり、北にもなにやら魂胆があるもよう。三つの店を持つ一軒の屋根の下には、三人の人間がすんでいた。ここに人が集まるわけは、あるじの民三のハゲ頭よりも、娘の道子のおかげである。活発で活動的で、東も南も切り盛りしている。西…

武田泰淳「夜の虹」

唐木は「思想犯」として捕らえられているが、実は彼は「殺人犯」でもあった。このことは秘密である。またこの空襲下では、知られるはずもないという安心感もあった。だが、留置場に最近、脱獄の名人・石田が収監されてきた。彼は明確な「殺人犯」であった。…

中島敦「巡査の居る風景」

敷石には凍った猫の死骸が牡蠣のようにへばりついた。その上を赤い甘栗屋の広告が風に千切れて狂いながら走った――。1923年の冬、すべてが汚いまま凍りついていた。趙教英巡査は寒そうに鼻をすすっては首を縮め、街を歩いていた。彼は支配者である日本という…

石川淳「雪のイブ」

売春婦と泥棒の喧嘩の仲裁に立ち上がった靴磨きの女はなまめかしく、男はついと誘い出す。入った先は西銀座の酒場、酔った女は自然に立膝の姿勢をとり、ズボンの破れ目から白くはだかの肉を光らせる。「行こうよ、ね」。ふりしきる雪は「善悪を知るの樹」も…

花田清輝「鳥獣戯話」

『武田三代軍記』によれば、信玄の父親・信虎は完璧な極悪人であったようだ。あげくに息子に追放されるのだが、これが隠退なのかクー・デターなのかという点は、『武田信玄伝』にあるように数百年にわたる論争となっている――。武田信虎を中心として、歴史を…