林芙美子「下町」

 夫がシベリアへ行ってから、りよは幸福を味わったことは一度もなかった。歳月は彼女の生活の外側で、何の感興もなく流れている。りよは、鉢巻の男の様子が、人柄のいい人物のように思えたので、おそるおそるそばへ行って、「静岡のお茶はいりませんでしょうか……」と小さい声で聞いてみた。鉢巻の男はりよの夫と同じく、シベリアに行っていたとかで思いもかけず話がはずんだ。

 しっかりとした描写に支えられた、出会いの物語。男という男が全て戦争に関わりバタバタと死んでいった、とんでもない時代に生きる人たちの話です。
 「苦労せざるを得なかった」世代と「苦労したいという積極さがなければ苦労出来ない」世代の間には埋めにくいギャップが横たわりますが、少なくとも前者にハングリー精神が養われたことは確かだと思います(その良し悪しは別問題としても)。
 ところで、鶴石の部屋には女優・山田五十鈴 のポスターが貼ってあるのですが、本作は作者・林芙美子の没後、その山田五十鈴主演で映画化されたそうで、気が利いているなあ!と思いました。