開高健「裸の王様」

 太郎には友人がいない。彼は周囲に対して圧迫感を抱き、心の四囲に壁をつくって孤独のなかに住んでいた。彼のスケッチブックは、努力を放棄した類型であった。人間の姿は描かれず、彼の心の不毛を物語っていた・・・。画の先生であるぼくは、子供に技術を教えることはしない。子供の能力を開かせるために、それを覆う破片の山をとりのけてあげるだけだ。

パニック・裸の王様 (新潮文庫)

パニック・裸の王様 (新潮文庫)

 「ぼく」は絵を通して子供の心の成長を暖かく支え助け、そして、大人社会に生きる人間たちの欺瞞を暴いていきます。愛と正義とジャーナリズムが同居した痛快な作品です。
 映画やテレビや本は既に作られた「結果」であるとし、「ぼく」は子供たちをその元となる動物園や川原に連れて行き、創造(あるいは想像)を行わせます。なるほど、です。それにしても教育とは、いかに時間がかかり、そして、難しいものだろうかと感じました。
 また、企業合併のごとく「小さな良質」は「巨大な資本」に吸い上げられますが、それに対する小さな反撃は、『子供の内部を旅行する疲労には耐えられるが、そのうしろにある広大な社会を思うと耐え切れない』といっていた「ぼく」もいつしか成長した証なのでしょう。

 子供の精力にはいつものことながらぼくは圧倒される。新しい現実から現実へ彼らはなんおためらいもなくとびうつってゆくのだ。どんな力のむだも彼らは意に介しないのだ。