2004-06-02から1日間の記事一覧

色川武大「百」

私はこれまで九十五になる父親と八十近い母親の世話をずっと回避し続けてきた。なぜなら父親は私の土地に平気で攻め込んでくるからだ。私が初めて書いた小説は、父親を叩き殺す話だった。しかし現実の父親はなかなか死なない。この父親のそばに居てやるため…

林芙美子「下町」

夫がシベリアへ行ってから、りよは幸福を味わったことは一度もなかった。歳月は彼女の生活の外側で、何の感興もなく流れている。りよは、鉢巻の男の様子が、人柄のいい人物のように思えたので、おそるおそるそばへ行って、「静岡のお茶はいりませんでしょう…

開高健「裸の王様」

太郎には友人がいない。彼は周囲に対して圧迫感を抱き、心の四囲に壁をつくって孤独のなかに住んでいた。彼のスケッチブックは、努力を放棄した類型であった。人間の姿は描かれず、彼の心の不毛を物語っていた・・・。画の先生であるぼくは、子供に技術を教…

石川淳「野ざらし」

東南西にはそれぞれ店があり、北にもなにやら魂胆があるもよう。三つの店を持つ一軒の屋根の下には、三人の人間がすんでいた。ここに人が集まるわけは、あるじの民三のハゲ頭よりも、娘の道子のおかげである。活発で活動的で、東も南も切り盛りしている。西…

武田泰淳「夜の虹」

唐木は「思想犯」として捕らえられているが、実は彼は「殺人犯」でもあった。このことは秘密である。またこの空襲下では、知られるはずもないという安心感もあった。だが、留置場に最近、脱獄の名人・石田が収監されてきた。彼は明確な「殺人犯」であった。…

中島敦「巡査の居る風景」

敷石には凍った猫の死骸が牡蠣のようにへばりついた。その上を赤い甘栗屋の広告が風に千切れて狂いながら走った――。1923年の冬、すべてが汚いまま凍りついていた。趙教英巡査は寒そうに鼻をすすっては首を縮め、街を歩いていた。彼は支配者である日本という…

石川淳「雪のイブ」

売春婦と泥棒の喧嘩の仲裁に立ち上がった靴磨きの女はなまめかしく、男はついと誘い出す。入った先は西銀座の酒場、酔った女は自然に立膝の姿勢をとり、ズボンの破れ目から白くはだかの肉を光らせる。「行こうよ、ね」。ふりしきる雪は「善悪を知るの樹」も…

花田清輝「鳥獣戯話」

『武田三代軍記』によれば、信玄の父親・信虎は完璧な極悪人であったようだ。あげくに息子に追放されるのだが、これが隠退なのかクー・デターなのかという点は、『武田信玄伝』にあるように数百年にわたる論争となっている――。武田信虎を中心として、歴史を…