島尾敏雄「勾配のあるラビリンス」

私はたそがれの頃、大都会の真中に突き出ていて、街の屋根を見下す公園に現れた。ところがそのときに限って、他に人が誰も現われなかった。――私は空虚を前に発作に襲われ、走り出していた。人の影を求める。それは世間では普通の顔をしているが、実際は追い…

椎名麟三「罪なき罪」

飼い犬に向かって、いつものように「おまえだけだよ、私の言うことを分かってくれるのは」と嘆いていた志津は、背後から子供に声をかけられた。「おばさん、死にたいの?」志津は、つまらない気がして云った。「そうよ、・・・おばさん、死ねたらと思ってい…

武田泰淳「森と湖のまつり」

映写がつづいているあいだも、入口からは絶えずアイヌたちが降りてきた。そのとき、ツルコ、ツルコというささやきが、女たちの口から口へ伝わった。鶴子は雪子の傍に腰をかがめると、「つまんないな」とつぶやいた。「あいかわらずだな、君は」と池博士は言…

丹羽文雄「厭がらせの年齢」

八十六になるうめ女は、家の中で迷って夜中でも助けを呼ぶ。悪意なく、すきを見せると盗みをはたらく。ひがみからか、客の前で「助けてくださいよぅ」とあわれな声を立てる。食事の量は減らず、そもそも食事したことを覚えていない。「ところで孫たちとして…

壇一雄「降ってきたドン・キホーテ」

一月元旦。変り映えのしない年賀状の中に一通、馬鹿デカイ封筒が混じっていた。これこそは誰あろう、ラ・マンチャの騎士ドン・キホーテ氏からのものだった!どこかの大統領が会見を申し込んできたのとはわけが違う。偉大なる騎士をどのように迎えるか、浴び…

石上玄一郎「日食」

人間が光合成能力を持つことが出来たならば、これは食糧問題に起因するあらゆる戦争を終結させるだろう。偉大な思想であり、未来に説かれる新たな産業革命である!――この思想故に、峯生は例の秘密結社から狙われてきた。だが、この戦いも明日で終わりだ。彼…

石川淳「小公子」

酔いどれどもが去ったあとに残った客は、若い男ただひとり。主人が「あなたはむかしお見かけたような」と声をかけると、客は「ぼくの生活は明日だけだ。きのうや、きょうのことは、もうおぼえが無い」と答えた。おやじが「また明日きてくれ。きょうの勘定は…

能島廉「競輪必勝法」

私は東大を卒業後、出版社に就職し、従兄弟の良雄は競輪選手になった。私も彼も将来を嘱望されていたのだが、3年、4年と経った頃、良雄は稼ぎを酒につぎ込むようになり、私も仕事を休んで競輪へ出かける日が多くなっていた。良雄は酒を飲まなければ、まだA…

野間宏「第三十六号」

刑務所内で私は、第三十六号という番号の男と親しくなった。彼は溜息のつき方(それは独房に奏でられる唯一の音楽であった)や、点呼の返事の仕方などで刑務所慣れした人間を感じさせた。しかし、それが他人を意識したポーズであることは明らかだった。私は…

武田泰淳「夜の虹」

唐木は「思想犯」として捕らえられているが、実は彼は「殺人犯」でもあった。このことは秘密である。またこの空襲下では、知られるはずもないという安心感もあった。だが、留置場に最近、脱獄の名人・石田が収監されてきた。彼は明確な「殺人犯」であった。…

花田清輝「鳥獣戯話」

『武田三代軍記』によれば、信玄の父親・信虎は完璧な極悪人であったようだ。あげくに息子に追放されるのだが、これが隠退なのかクー・デターなのかという点は、『武田信玄伝』にあるように数百年にわたる論争となっている――。武田信虎を中心として、歴史を…

佐木隆三「ジャンケンポン協定」

労使の妥協案として実施される「ジャンケンポン協定」。初の紳士協定といわれるそれは、ジャンケンに勝った方が会社に残り、負けた方がリストラされるというものである。・・・最後尾についた彼の計算によれば、出番までには三時間半ほどある。列のあちこち…

由紀しげ子「本の話」

姉からの手紙を読んで出かけると、姉を看病していた義兄の死に目にあった。彼は姉を看病したあげく、栄養失調で亡くなった。唯一の遺品は、数百冊の本である。義兄のためにも私は、この本を高く売らなければならない。だが、私には本の価値が分からない。全…

竹ノ内静雄「ロッダム号の船長」

ロッダム号の船長としてサン・ピエールの港に寄航した私は、オーギュスト・モーラスと挨拶を交わしていました。私の妻から彼の妻への指輪のプレゼントを渡し、会話を楽しんでいたときのことです。身体を一種の鋭い身ぶるいが走り抜けたと思うと、次の瞬間、…

掘田善衛「曇り日」

おれの心が屈していたのには2つの理由がある。1つめは、黒い男が雨の中を逃げまくり、白い兵隊と黄色い警官が、その姿を追って、なぶりものにしたのを見たからだ。もう1つは、Qと出会ってしまったせいだ。おれはあのQのことが――やはり、はっきりとその名…

伊藤整「幽鬼の街」

十数年ぶりに訪れた小樽の町で、元不倫相手は老女となって迫りくり、親切だった先輩は死臭を漂わせながら宗教を語る。便所に入ると隣室から女声が聞こえ、川のせせらぎはいつしか人間の姿に変わる。卑怯だった青年期に係わり合い、私のために人生を崩し死ん…

織田作之助「髪」

丸刈りが当然とされるた戦中のあの時代を、私は長髪で通しきったのである。権威を嫌うあまりルールを破りとおし、髪を守るために退学の道をさえ選んだのだった。つまりこの長髪には、ささやかながら私の青春の想出が秘められているのだ。男にも髪の歴史とい…