2004-06-06から1日間の記事一覧

三島由紀夫「雨のなかの噴水」

彼はその言葉をいうために少女を愛したふりをしてきたのだ。男のなかの男だけが、口にすることが出来る言葉。世界中でもっとも英雄的な、もっとも光輝く言葉。すなわち――「別れよう!」 不明瞭に言ってしまったことが心残りだったが、雅子の涙を見て、とうと…

石川淳「紫苑物語」

あくる日の狩、国の守である宗頼はおなじほどの年ごろの平太とあった。やつに守の命はつうじず、すさまじい気迫に圧せられ、宗頼ははずかしめを、いや、のろいを受けた。宗頼はふもとから山上を振り返り、敵の背をにらむ・・・。宗頼は民を殺しては、そのあ…

石川淳「黄金伝説」

戦争以来すっかり自分を見うしなったわたしは、いくたびか息絶えようとしたが、狂いながらもカチカチとこの世をきざむ時計の音が、わたしを地上に引きとどめたのだった。そして汽車に乗って諸国を走りまわっては、三つの願いをかなえようとしたのである。狂…

大江健三郎「死者の奢り」

僕と女子学生は医学部の死体処理室で死体処理のアルバイトをしていた。濃褐色の液に浸って絡みあった死体の硬く引きしまった感じ、吸収性の濃密さ、それは完全な推移を終えた《物》だ。マスクをかけていても臭気と死臭は浸入して来、時には耐えがたいほどだ…

遠藤周作「四十歳の男」

二度の手術が失敗し、三度目の手術に踏み切らなくてはならなくなった。三年に及ぶ能瀬の入院費は家計をひどく圧迫している。高価な九官鳥を買えというのは、思いやりのない注文にちがいない。しかし能瀬は今、どうしてもあの鳥がほしい。能瀬は神父にすら言…

石川淳「焼跡のイエス」

炎天下の雑踏の中、汚らしくみすぼらしい少年があらわれた。顔中膿にまみれ、服と肌のけじめなく、悪臭を放ったひどい生きものである。すると近くをあるくひとのむれを、いきなり恐怖の感情がおそったようだ。だが、少年はひとり涼しそうに遠くを見つめ、ま…

野間宏「暗い絵」

どうしてブリューゲルの絵にはこんなにも悩みと痛みと疼きを感じ、それらによってのみ存在を主張しているかのような黒い穴が開いているのだろう・・・。見まいと思ってもこの絵が持つ不思議な力は、彼らに彼ら自身の苦しみと呻きを思い起こさせていた。永杉…

野間宏「第三十六号」

刑務所内で私は、第三十六号という番号の男と親しくなった。彼は溜息のつき方(それは独房に奏でられる唯一の音楽であった)や、点呼の返事の仕方などで刑務所慣れした人間を感じさせた。しかし、それが他人を意識したポーズであることは明らかだった。私は…

石川淳「マルスの歌」

あの歌が聞えて来ると、わたしは指先のいらだちを感じては原稿をびりびりと引き裂き、感情の整理を試みるが、結局は立ち上がって街頭の流行歌に向かってNO!とさけぶのだ。だが、道行く全ての人間が国威高揚の流行歌「マルス」をあきずに歌っているところ…