石川淳「マルスの歌」

 あの歌が聞えて来ると、わたしは指先のいらだちを感じては原稿をびりびりと引き裂き、感情の整理を試みるが、結局は立ち上がって街頭の流行歌に向かってNO!とさけぶのだ。だが、道行く全ての人間が国威高揚の流行歌「マルス」をあきずに歌っているところをみると、これが世間にとっての正気なのだろう。すると私の正気とは、狂気のことであったのか?

石川淳 (ちくま日本文学全集 11)

石川淳 (ちくま日本文学全集 11)

 『戦争』という流行(!)が国中をかけめぐり、それに対する疑問の声をもたない、一般社会。主人公はそれについていけず、社会とのあいだに壁を感じ、ひとびととのあいだに疎外を感じます。自分は正しいはずなのに・・・・と膝を抱きます。NO!といって立ち上がろうとしますが、叫びは誰もいない場所でしか出来ません。そんな己に感じる不満の姿。圧政の元でも暴力におびえ、大人しく暮さざるを得ない、途上国の人々の生活がここに。そう、日本はこのとき、精神の途上国でした。
 ところで、この作品は当時の日本軍部に、雑誌(「文學界」)もろとも発禁処分を受けた作品です。その雑誌の編集を担当していた河上徹太郎小林秀雄はそれぞれ30円と50円の罰金刑を食らい、2人ともそんな大金は持っていなかったので菊池寛に払ってもらったらしい(河上徹太郎「蓮根論争」より)。