武田泰淳「鶴のドン・キホーテ」

あまり長くつづく沈黙に気味わるくなったそのとき、鶴田が思いつめた様子で片手を懐に差し入れて、古新聞紙にくるんだつまらない包みをサメ子の方に差し出しました。そのときの彼の眼は異様な光を発していたのです。矛盾した怒りと悲しみのほかに、求愛のせ…

中島敦「悟浄出世」

悟浄は病気だった。彼は一万三千の妖怪の中で、最も心が弱い生き物だった。「俺は莫迦だ」とか「俺はもう駄目だ」とか「どうして俺はこうなんだろう」とか呟いていたのである。医師の魚妖怪に「この病には自分で治すよりほかは無いのじゃ」と言われ、とうと…

梅崎春生「贋の季節」

借金を踏み倒して夜逃げしてきたサーカス団は、この町でも悲惨な客入りが続いていた。そんなとき、私は「お爺さん」を舞台に出したらどうだろうか、と提案したのである。それは何の芸もなく、ただ叫んで逃げようとするだけの老猿である。ところがサーカス団…

安部公房「砂の女」

昆虫採集にきた男が一晩の宿としてあてがわれたのは、砂の崖に囲まれた家。そこには年若い女が一人住んでいた。家に降り積もる砂、食事のときには傘がいり、ふとんはますますしめっぽい。女もさっさとこんな家を出ればいいのに・・・流動し続ける1/8mmの砂の…

梅崎春生「記憶」

その夜彼はかなり酔っていた。家まであと三十メートル、このタクシーの運転手は暗いからといって停車した。「今までのタクシーはぜんぶ通ったよ」「おれはイヤだね」。前を向いたまま、運転手はいった。思えば、まだ顔を見ていない。「歩いたらどうですか」…

大江健三郎「個人的な体験」

アフリカ旅行の夢を抱く鳥(バード)が授かった、障害をもった赤んぼう。障害のある怪物に人生を引きずられたくはない。そうでなければ、これからの生活は?・・・すでに植物のような赤んぼう。どうせ死ぬだろう。すぐに死ぬはずだ。死んでくれ。・・・エゴ…

太宰治「正義と微笑」

晴れ。朝十時、兄さんに見送られて、出発した。人生の首途。けさは、本当にそんな気がした。握手したかったのだけれど、大袈裟みたいだから、がまんした。兄さんはどうも試験を甘く見すぎる傾向がある。でも僕は、また落ちるかも知れないのだ。その辛さ、間…

石川達三「青春の蹉跌」

生きることは闘争だ。たった一度しかない自分の人生を悲惨なものにしたくない。どのような幸福を選んだところで俺の自由だ。江藤賢一郎の計算はすべて将来に向かっていた。大橋登美子などへは詐術に対する罪の意識より、自分自身への反省がつのった。司法試…

石川淳「狂風記」

荒れた裾野はたましいの領地。怨霊の国。えらばれた住民マゴは、ゴミの中からシャベルをつかって骨をさがすと、オシハノミコの因縁でヒメの肌に押しつぶされる。千何百年の歴史をその場に巻きかえし、人間の怨霊が食らいついて離れない。因縁の目方は歴史の…

武田泰淳「快楽」

宝屋の若夫人の肉の魅力とその妹・久美子の思いつめた姿が、女への執着を棄てることが出来ない青年僧・柳の頭にあった。善を知るためにはまず悪を知らなければならないと若夫人は言い寄るが、柳は「いやだいやだいやだ」と首をふるばかりだった。悪僧・穴山…

開高健「日本三文オペラ」

フクスケが連れていかれたゆがんだ家では、大男たちが洗面器に入った牛の臓物を食っている最中だった。元陸軍砲兵工廠の杉山鉱山から豊富な鉄を笑うために、住民800人全部が泥棒となった部落・アパッチ族。そこでは親分、先頭、ザコ、渡し、もぐりなど見事な…

中野重治「空想家とシナリオ」

車善六は空想家だった。たとえば彼は自分の名前の由来についても空想に浸っているのだった。また彼は役所での仕事の合間にも、創造的苦痛を伴うような自分にあった仕事、たとえばシナリオを書くことなどを考えていたのである。彼の空想はどんどん広がってい…

丸谷才一「墨いろの月」

翻訳家の朝倉がバーでマスターから聞いた話によると、どうやら30年ほど前に自分が喧嘩を教えた子供が現在ヤクザの親分になっており、「あのとき教わっていなかったら、今の自分はない」と言ったらしい。喧嘩に負け続ける子供に指南したことは自分の中では美談…

石上玄一郎「精神病学教室」

まったく自信がもてない医師・高津に、教授は手術を薦めてきた。「患者の危険も、時によってはやむを得ないものだ」。一方では、親友に死期が迫っている者がおり、高津は彼には延命をこころみる・・・。ここに現代医学から絶望視された二人の患者がある。彼ら…

北杜夫「楡家の人びと」

大正八年、年末恒例の賞与式では、朗々と響き渡る青雲堂主人の声に応じて不思議な人物たちが壇上へ昇ってくる。そのひとりひとりに賞を手渡す、院長・楡基一郎の仰々しく得意げな様子。それらを長女・龍子は微動だにせずに、三女・桃子は興味と熱意をもって…

田中英光「桑名古庵」

桑名古庵は、土佐における最初のヤソ教信者とされているが、この情報はだいぶ怪しい。むしろ彼の生涯の方に封建社会の犠牲者としてのはっきりした栄誉があると思う。白髪が増えてゆく母、一人立ちして医者になる古庵、それぞれに生きる兄弟たち、そしてキリ…

坂口安吾「街はふるさと」

悪人の利己主義者、金銭至上の合理主義者、センチな貧乏者、決断出来ない子供、達観した神様、娼婦、ギャング。京都と東京をまたにかけ、彼らは動く。ある者は運命に流され、ある者は逆らって生きている。無だと言われ、蔑まれ、それでも男は「生き抜く」と…

高見順「ノーカナのこと」

陥落直後のラングーンで、印度人コック長ポトラーズは特別料理を作る約束を果たさなかった。材料費をくすねておいて、発覚しても謝らなかった。私はそんなポトラーズから印度人を考え、ひいては人間に絶望しそうな自分が恐かった。そんなときでも給仕ノーカ…

坂口安吾「イノチガケ」

信長に保護され、秀吉に蹴落とされ、家康に止めを刺され、切支丹は完全に国禁された。海外からは情熱を抱いて浸入する宣教師が絶えなかったが、遊ぶ子供の情熱に似た幕府の単調さは、彼らの迫害を行い続けた。火あぶり、氷責、斬首、穴つるし、島原の乱、鎖…

深沢七郎「因果物語―巷説・武田信玄」

武田信玄は三百五十年も前に死んだ人なのである。けれども甲斐の国の百姓たちにとっては、今でも立派な人といえば信玄公よりほかにいないし、偉い人というのも信玄公よりほかにはないのである。水騒動や税法の一件のときも、村人にとっての「シンゲンコー」…

石川淳「おまえの敵はおまえだ」

欲望に油をかけて火をつけろ。けちくさい希望のかけらまで燃やし、希望くさい嫌疑のあるやつは全てたたきつぶせ。そこにわれわれの国、島がうまれる。こっちの夢が悪夢となり可能が不可能となる島が、噴火とともに浮上する。支配をたくらむ人間ども、朝のま…

井伏鱒二「大空の鷲」

御坂峠の空を自由にとびまわり、下界を睥睨する鷲がいる。茶屋の人たちは、この鷲を御坂峠のクロと呼んでいる。あるときは大きな魚を、あるときは猿をくわえ、クロは諸所方々にある根城にもっていく――。横着な監督に率いられた映画の撮影隊がきた数日後、東…

井伏鱒二「屋根の上のサワン」

猟銃に撃たれて苦しんでいる雁を見つけた私は、丈夫にしてやろうと決心し、さっそく家に連れて帰りました。勘違いして騒ぐ鳥を押さえつけて手術を施し、一安心です。順調に回復してきた人なつこい鳥に、私はこれにサワンという名前をつけました。そして、秋…

大江健三郎「河馬に噛まれる」

僕はある日、アフリカで日本人の青年が河馬に噛まれて怪我をしたという新聞の記事を読んだ。「河馬の勇士」と綽名されるその男は、かつて僕とわずかながら関わりのあった青年で、彼のアフリカ行きには僕にも責任があるようだ。彼との関係のはじまりは、彼の母…

壇一雄「降ってきたドン・キホーテ」

一月元旦。変り映えのしない年賀状の中に一通、馬鹿デカイ封筒が混じっていた。これこそは誰あろう、ラ・マンチャの騎士ドン・キホーテ氏からのものだった!どこかの大統領が会見を申し込んできたのとはわけが違う。偉大なる騎士をどのように迎えるか、浴び…

野坂昭如「マッチ売りの少女」

木枯しに身ふるわせて、マッチ一つすっては股のぬくもりをむさぼっている。タオルの寝巻きに泥と脂にまみれた半天一枚、半分坊主のざんばら髪に、頬はげっそり、姿かたちは五十過ぎ、けれども実はまだ二十四歳。「お父ちゃんお父ちゃん」とちいさくさけんで…

三浦朱門「傷だらけのパイプ」

落第して当然の学生を前に、福山は評価を下せないでいた。落第することで彼の人生はどうなるのだろう。だが、彼を卒業させたとしても、社会の害毒を生み出すことになるのではないか。また学生は土下座をしながら「許してください」と言ったのだが、許す、と…

安岡章太郎「サアカスの馬」

何の特徴も取得もない僕は、担任の清川先生から諦められていた。叱られることもなく、じっと見つめられるのだ。そんなとき僕はくやしい気持にもかなしい気持にもなれず、ただ、目をそむけながら(まアいいや、どうだって)と呟くのだった。そんな少年の前に…

江戸川乱歩「押絵と旅する男」

蜃気楼を見に行った帰りの汽車内には、客はたった一人しかいなかった。その先客は一見四十前後だが顔じゅうにおびただしい皺があり、そして持っていた荷物は生きた人間が描かれた絵・・・。するとその奇怪な男と目があってしまい、私の体は恐怖を感じる心と…

石川淳「無明」

多賀彌太郎は武家の非礼をこらえかねてなじれば、武家はあざ笑ってののしった。勢い刀をつかむに、さきも手が早い。ただし浅手。彌太郎ひるまず、抜打に一刀、これを斬りたおした。やむをえぬ仕儀、武家の死骸の上に腰かけて、もはやこれまでと切腹、刀をく…