織田作之助「勝負師」

ちょうど1ヶ月前、私はある文芸雑誌に、静かな余生を送っている坂田三吉の古傷に触れるようなことを書いた。だが、私は今また彼のことを書こうとしている。それは人生で最も大事な勝負において常識外れの、前代未聞のを指し、そして敗れた坂田の中に、私は私…

開高健「巨人と玩具」

キャラメルメーカーのサムソンは、キャラメルにつける「おまけ」の知恵を絞っていた。キャラメル業界の不透明な先行きの中、サラリーマンたちを襲う徒労、そして無力感・・・。だが、重役たちの声はたったひとつであった。「もっと売れ!もっと売れ!」――巨…

椎名麟三「自由の彼方で」

情けなくていやらしい清作は、レストランで働きながら、自分が何をしたいのか、さっぱりわからないと考えていた。ああ、どうしてぼくには幸せがこないんだろう!と裏の空地で涙していたが、そもそも幸福とは何なのかということについてさえ、具体的なことは…

太宰治「魚服記」

馬禿山の滝つぼ近くの茶店で、店番のスワはすべて父親の指示どおりにしていた。しかし、このごろ、スワはすこし思案ぶかくなってきたようである。ながめているだけでは足らなくなってきたのだ。父親は、売れても売れなくても、なんでもなさそうな顔をしてい…

太宰治「畜犬談」

諸君、犬は猛獣である。彼らは馬をたおし、獅子をも征服するというではないか。いつなんどき怒り狂い、その本性を発揮するかわからない。世の多くの飼い主は、さながら家族の一員のようにこれを扱っているが、不意にわんと言って喰いついたら、どうする気だ…

石上玄一郎「日食」

人間が光合成能力を持つことが出来たならば、これは食糧問題に起因するあらゆる戦争を終結させるだろう。偉大な思想であり、未来に説かれる新たな産業革命である!――この思想故に、峯生は例の秘密結社から狙われてきた。だが、この戦いも明日で終わりだ。彼…

石川淳「小公子」

酔いどれどもが去ったあとに残った客は、若い男ただひとり。主人が「あなたはむかしお見かけたような」と声をかけると、客は「ぼくの生活は明日だけだ。きのうや、きょうのことは、もうおぼえが無い」と答えた。おやじが「また明日きてくれ。きょうの勘定は…

吉行淳之介「手鞠」

かつてたびたび肌を合わせた女に声をかけられたとき、彼は思わず雑沓にまぎれこむ姿勢になった。この女に対して逃げ隠れする理由も、彼はもっていないのに――。彼と友人の男は、女の後をついて、街の裏側へと歩み込んでいく。はじめてその種のことを経験した…

石川淳「アルプスの少女」

クララはハイジのはげましのおかげで、立ち上がることが出来るようになった。歩くことが出来るようになったクララに、牧場の生活に気に入らないことがある法はない。けれどもクララの目と足は、牧場とは反対側の村の方に、村よりもずっと向うのほうにむいて…

石川淳「霊薬十二神丹」

助次郎はたわいない口論から蹴たおされ、一刀により肝腎なものをすぽりと切りおとされた。神医につかえてきた弟は、つちかった秘術を兄のために使った。天地の霊をこめた丸薬を用いることで、かのものは元の位置にもどったのである。だが、様子のことなると…

石川淳「八幡縁起」

石別を抱えた山は、高く天にそびえ、茂みは大山となった。土地で山は神であり、その主である石別は山そのものであった。ある日、はるかかなたに丘がうまれ、それは三七二十一日目に山となった。ふもとの土地で新王の隣にそなえた荒玉は、血をこのむ新しい霊…

野坂昭如「火垂るの墓」

母は息をひきとり周りの人には辛くされ、清太と節子は横穴に住む。すぐに食い物なくなり節子はやせ衰え、人形を抱く力もはいらない。――お父ちゃん、今ごろどこで戦争してはんねんやろ、なあ、お母ちゃん。せや、節子覚えてるやろか、と口に出しかけて、いや…

埴谷雄高「追跡の魔」

逃げつづける夢、というのがある。そこでは誰もが「決定的な大罪」を犯した者であり、暗黒の追跡者から逃げつづけるのである。この夢は、私にめざましい啓示を与えた。いつまでも逃げつづけられれば、すなわち夢を見つづけるならば、やがて宇宙の果てへ辿り…

島尾敏雄「死の棘」

寄りそってくる妻はもういない。信頼のまなざしはもう認められない。電車を降りて家に帰ると妻はいなかった。女を刺し殺すのだと言っていた顔が、鶏の首を黙ってしめていた孤独な格好が目に浮かぶ。私は二度と行くまいと誓ったはずの、女の家にふたたび向う…

松本清張「断碑」

木村卓治を考古学の鬼才とよび、彼が生きていれば現在の考古学はもっと前進していたとの声は多い。現在からみると、彼の主張は正しかったことが知られている。だが、彼の熱心さと斬新な着眼点がゆえに、その主張は保守的学者から一斉に非難され、彼は中央に…

大江健三郎「見るまえに跳べ」

ぼくは女に「若い人間は戦乱をくぐってこそ成長するさ」と気取っていたが、戦場行きの話をもちかけられたとき、うつむいたまま返事をすることが出来なかった。――おれは跳ばない。いつもそうだ。おれは卑劣だ。ぼくは一生跳ぶことはなく、平凡な職につくのだ…

織田作之助「ニコ狆先生」

私はこのたび感ずるところあってニコ狆先生の門弟となった。ニコ狆先生またの名を狆クシャといい、甲賀流忍術の達人である。先生の顔は犬の狆がクシャミをするときによく似ている。先生の妙齢のご令嬢、美しい、美し過ぎる千代子さんとは、トンビと鷹の親子…

大江健三郎「運搬」

僕は仔牛の下半分を両腕にかかえあげ、すべり落ちようとする肉のぶよぶよとした感覚に汗ばみながら、どうにか自転車にくくりつけた。僕らの自転車は夜ふけの町を快い速さで進んだ。僕にとってこれは決して悪い仕事ではない。僕はすべてが快活な状態にあるの…

今日出海「天皇の帽子」

果てしなく巨大な頭。それが成田弥門の最も目立つところであった。真面目だが成績はあがらず、追従やはぐらかす術を知らず、彼は博物館の雇員となった。何々博士や宮内庁の高官が出入りするところで働くことは、端厳な武家風教育で育った彼にとって誇りだっ…

梅崎春生「ボロ家の春秋」

僕が借りている家に突然、野呂旅人という男がやってきました。そんな話は聞いちゃいませんでしたが、どうやら二人とも貸主に騙されたらしい。僕らは被害者同士で気持ちを通じ合わせたのですが、この友好関係は長続きしませんでした。この野呂は嫌がらせが好…

野間宏「第三十六号」

刑務所内で私は、第三十六号という番号の男と親しくなった。彼は溜息のつき方(それは独房に奏でられる唯一の音楽であった)や、点呼の返事の仕方などで刑務所慣れした人間を感じさせた。しかし、それが他人を意識したポーズであることは明らかだった。私は…

石川淳「マルスの歌」

あの歌が聞えて来ると、わたしは指先のいらだちを感じては原稿をびりびりと引き裂き、感情の整理を試みるが、結局は立ち上がって街頭の流行歌に向かってNO!とさけぶのだ。だが、道行く全ての人間が国威高揚の流行歌「マルス」をあきずに歌っているところ…

石川淳「野ざらし」

東南西にはそれぞれ店があり、北にもなにやら魂胆があるもよう。三つの店を持つ一軒の屋根の下には、三人の人間がすんでいた。ここに人が集まるわけは、あるじの民三のハゲ頭よりも、娘の道子のおかげである。活発で活動的で、東も南も切り盛りしている。西…

武田泰淳「夜の虹」

唐木は「思想犯」として捕らえられているが、実は彼は「殺人犯」でもあった。このことは秘密である。またこの空襲下では、知られるはずもないという安心感もあった。だが、留置場に最近、脱獄の名人・石田が収監されてきた。彼は明確な「殺人犯」であった。…

矢田津世子「旅役者の妻より」

あね様。おたよりせなんだ約百日ばかりの間、言葉につくせぬ苦労をなめました・・・。わたくしは産後の体調優れず、良人は舞台で卒倒して以来回復せず、悲惨と申すほかありません。ああ、何度親子心中を考えたかしれません。たくさん金儲けした親戚たちも、…

井伏鱒二「朽助のいる谷間」

谷本朽助(七七歳)の孫のタエトという娘から手紙が来た。「この谷底にダムが出来ることになり、私どもの家は立ち退かなければならなくなりました。けれども、祖父・朽助は反対なのでございます。弁護士でおられるあなたならば(中略)祖父を説き伏せて下さ…

中島敦「文字禍」

老博士ナブ・アヘ・エリバはアシュル・バニ・アパル大王の命により、「文字の精霊」についての研究を始めた。博士は図書館で瓦の内容を調べ、終日それを凝視していたが、そのうちにおかしな事が起った。一つの文字を見詰めている中に、いつしか文字が解体し…

井上靖「闘牛」

大スタンドの中央で行われる競技、乱れとぶ札束、どよめく観衆・・・闘牛大会のプランを聞いたとき、新聞局長・津上の頭の中ではこれらの情景が自然に浮かんだ。だが、直前まで起こるトラブルの数々は心配の種をつきさせない。そんな中、津上の背中を見なが…

島尾敏雄「島の果て」

むかし、世界中が戦争をしていた頃のお話なのですが――。隣の部落のショハーテに、軍隊が駐屯してきました。みんなおびえていましたが、聞くところによると中尉さんは軍人らしくないそうです。中尉さんは、子供たちとも仲良くしていました。ところで敵の影が…

松本清張「或る「小倉日記」伝」

母と暮らす耕作は生まれながら障害があり、身体に向けられる世間の好奇と同情の目を知りながら育った。だが学校ではズバ抜けた秀才で、母子はそこに小さな自信を抱いた。生涯唯一の友人・江南の紹介で、耕作は小倉時代の森鴎外の秘密を知り、鴎外の交友を求…