中島敦「文字禍」

 老博士ナブ・アヘ・エリバはアシュル・バニ・アパル大王の命により、「文字の精霊」についての研究を始めた。博士は図書館で瓦の内容を調べ、終日それを凝視していたが、そのうちにおかしな事が起った。一つの文字を見詰めている中に、いつしか文字が解体して、意味の無い線としか見えなくなって来たのだ。博士は考えた。線や点に意味を持たせるのは何か?――これこそ「文字の霊」に違いない。

中島敦 (ちくま日本文学全集)

中島敦 (ちくま日本文学全集)

 書物、そして文字、それらは普段何気なく扱っているものですが、そこに宿った悪戯好きな精霊は、我々の生活を蝕んでいる模様です。もしこの世から文字がいなくなってしまったら?・・・しっかりお供え物をしなければ、博士のような目にあってしまいそうです。ユーモアにあふれた素晴らしくセンスのいい小説であり、本好きなら誰にでも、自信を持っておススメできます。

 近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。