井伏鱒二

井伏鱒二「黒い雨」

ここ数年、姪の結婚話がうまくいかなかったのは、彼女が原爆病患者であるという噂が邪魔しているからである。彼女を広島に呼び寄せた責任もあり、重松は心に重荷を感じ続けてきた。それでも今回は上手くいきそうである。昭和二十年の日記を書き写し、仲人に…

井伏鱒二「かきつばた」

小林旅館にある伊部焼の水甕は、高さ四尺で朱色に近く、私は非常にそれを欲しがった。ところがおかみさんは譲ってくれない。広島の空襲後、旅館はすでに立退いていて、水甕は放置されたままだった。健在の日の思い出が去来し・・・しかし、いまいましい。棄…

井伏鱒二「大空の鷲」

御坂峠の空を自由にとびまわり、下界を睥睨する鷲がいる。茶屋の人たちは、この鷲を御坂峠のクロと呼んでいる。あるときは大きな魚を、あるときは猿をくわえ、クロは諸所方々にある根城にもっていく――。横着な監督に率いられた映画の撮影隊がきた数日後、東…

井伏鱒二「屋根の上のサワン」

猟銃に撃たれて苦しんでいる雁を見つけた私は、丈夫にしてやろうと決心し、さっそく家に連れて帰りました。勘違いして騒ぐ鳥を押さえつけて手術を施し、一安心です。順調に回復してきた人なつこい鳥に、私はこれにサワンという名前をつけました。そして、秋…

井伏鱒二「へんろう宿」

ここ「へんろう宿」で私を出迎えてくれたのは、50くらいの女である。奥の部屋へ行くためには居間を通る必要があるが、そこには80ぐらいのお婆さんと60くらいのお婆さんが座っていた。どこを見渡しても、男手というものが見当たらない。いわくについて知るこ…

井伏鱒二「朽助のいる谷間」

谷本朽助(七七歳)の孫のタエトという娘から手紙が来た。「この谷底にダムが出来ることになり、私どもの家は立ち退かなければならなくなりました。けれども、祖父・朽助は反対なのでございます。弁護士でおられるあなたならば(中略)祖父を説き伏せて下さ…

井伏鱒二「遥拝隊長」

戦争から帰ってきた悠一ッつあんは、気が狂ってしまっていた。普段はとても良い青年なのだが、ときどき軍隊時代を思い出して青年たちに命令を下すのである。逃げ出そうとすると「逃げると、ぶった斬るぞォ」とくるので、村の人は、しようがないなあ、と従っ…