井伏鱒二「黒い雨」

 ここ数年、姪の結婚話がうまくいかなかったのは、彼女が原爆病患者であるという噂が邪魔しているからである。彼女を広島に呼び寄せた責任もあり、重松は心に重荷を感じ続けてきた。それでも今回は上手くいきそうである。昭和二十年の日記を書き写し、仲人に送ることにより、原爆病ではないことを納得させることが出来さえすれば・・・。

黒い雨 (新潮文庫)

黒い雨 (新潮文庫)

 第二次世界大戦下の広島で、突然の原爆投下に見舞われた人間たちの様子が描かれる戦争文学の名作。全く予想だにしていなかった事態に対し、麻痺してしまった思考回路。そこで表れるのは人間の本能の行動です。
 同情と哀悼の「今」を過ぎ去ると、それは次第に「過去」になります。激情の大きさと比例して、人間の本能はそれを忘れよう忘れようとし、そうして記憶の中に封印します。人間を含む動物は本来今・現在に生きる者であるため、決して薄情さを表すものではありません。数百の死体を目の当たりにしても、市民は次第に普段の生活に帰っていきます。その中で「過去」の印を引きずった者には辛い未来が訪れ、当時、それは差別という形をともないました。

 この小説は勿論痛烈な戦争呪詛である。然し面と向って反戦を喚き立てるのではなく、黙々と戦争に「協力」しながらその犠牲になっている民衆に対する無言のいたわりから出来ている。だからそこに真実の戦争への抵抗が生まれるのだ。(河上徹太郎「『黒い雨』について」)
黒い雨 デジタルニューマスター版 [DVD]

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