井伏鱒二「遥拝隊長」

  戦争から帰ってきた悠一ッつあんは、気が狂ってしまっていた。普段はとても良い青年なのだが、ときどき軍隊時代を思い出して青年たちに命令を下すのである。逃げ出そうとすると「逃げると、ぶった斬るぞォ」とくるので、村の人は、しようがないなあ、と従っていた。よそから来た人は悠一ッつあんに歯向うが、そういうとき村の人は悠一ッつあんの味方をするのである。

 滑稽な行動で読者をつかみ、最後まで一息に読ませる傑作です。個人的には、井伏作品中、最高の作品。
 戦争の時点で時が止まった悠一が、そこから数年進んだ「今」の村へ放り出されて起きる出来事の数々。その1つ1つは小さく見えますが、人によってはとても深い傷をえぐるもの。暴力で支配していた日本軍、その骸骨である悠一は、無残な報復を受けてしまいます。その姿は哀れ。
 

 何でも人との気まずい対決を回避してゆく井伏としては、こんな激しい怒りを作品の中へぶちまけたことは珍しいといわねばならない。井伏がシンガポール山下奉文大将から面罵されたというのは有名な逸話だが、その時の彼の表情がこの小説の中で読みとれるのである。(河上徹太郎「人と文学」)

 発作中の彼は、たとえば通りすがりの人に、いきなり「おい、下士官を呼べえ」と大声で呶鳴りつけることがある。下士官などいないので、まごまごしていると「敏速にやれえ、何を愚図愚図するか」と呶鳴り出す。ときには「突撃に進めえ」と号令をかけることもある。