牧野信一「鬼涙村」

 私と水流舟二郎君は、毎年恒例の鬼涙村祭に用いられるお面作りの仕事仲間であった。完成したお面を届けに久しぶりに外出すると、村には祭りが近づいている景色が見受けられた。だが、私にとっての祭りは決して楽しみばかりではない。祭りの背後では秘密結社によるリンチが行われる慣わしがあり、今年のターゲットは、噂によれば他ならぬ私かもしれないのだ。

鬼涙村

鬼涙村

 お祭り騒ぎの中に悪をしのばせて、危うい心理を描写します。主人公は人のウワサに動かされて、不安と安堵の間を行ったり来たり。自分の正体が見えていない人間は、自分の位置をつかむために、他人を指標にしてしまいます。ついでに善悪の判断もとっさの場合、表面上の事実を元にしてしまいがち。いくら中身が大事といったところで、ワザと悪を選ぶ人は、ドストエフスキー「悪霊」のスタヴローギンくらいで普通はいません。たとえ「そんなこと自分には有り得ないさ」と思っていても、生きた人間が自分の相対的な位置を把握することは、何かの道具を使わないと難しいようで・・・。

 私は、囲炉裏のまわりに、偶然にも容疑者ばかりが集ったのを、改めて見廻した。そして、人の反感や憎念をあがなう人物というものは、その行為や人格を別にして、外形を一瞥したのみで、直ちに堪らぬ厭味を覚えさせられるものだとおもった。人の通有性などというものは平凡で、そして的確だ。私にしろ、もしもすべての村人を一列にならべて、その中から全く理由もなく「憎むべき人物」を指摘せよと命ぜられたならば、やはりこれらの者共と、そして万豊とJを選んだであろうと思われた。

ゼーロン・淡雪 他十一篇 (岩波文庫)

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